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ザ・戊辰研マガジン

2022年07月号 vol.57

いろいろ感想「青天を衝け 34・35・36回」

2022年06月24日 17:24 by katsukaisyu
2022年06月24日 17:24 by katsukaisyu

栄一、粉骨砕身する

 条約を改正したい政府の都合で、商法会議所を作ることになった栄一です。民であっても、日本の代表になれると意気込む英一は、会議所作りに奮闘しました。岩崎弥太郎とも協力したい英一です。大阪の五代も、大阪商法会議所を作る予定で、英一に先を越されたと、岩崎に伝えていました。政府の肝いりでできた東京商法会議所ですが、五代もすぐに、大阪で作りました。こちらはこちらで、保守的な商人たちに強硬に反対されましたが。

 明治政府はまだ、江戸幕府の政策のままで、困窮者福祉を行おうという気も、財力も無く、貧しい者はますます貧しくなり・・と、世の中の不満が高まっていました。明治政府が福祉を図らずも行うようになるのは、都市に困窮者が集まった明治中期以降のことです。江戸期も困窮者は大勢いましたが、それなりに親類・縁者の相互扶助がありました。明治になって、移動の自由が生まれ、困窮者が都市へ集まるようになり、貧民窟が形成されるようになってきて、というのは大正期を扱った「鬼滅の刃」でも描かれていました。

 岩崎と会った英一は、あくまで合本主義をかかげ、理想を語りますが、岩崎の気性とは合わなかったようです。栄一の方は、個人の儲けよりも、ガスや電気、鉄道などの会社を作り、インフラ整備を進めました。  日本を訪問するアメリカの元大統領グラントを夫婦でもてなすことになった栄一一家、不安そうな英一に対して、「女子も仕事をもらった」と、前向きに励む奥方の千代、いい嫁です。本ドラマでは、鹿鳴館時代の件は話に出てこないですが、女性たちが美麗なドレス姿を披露してくれました。「女子も変わらねばならぬ」と、千代は西洋流の交際術を学んでいました。筆者も初めて渡欧する前には、洋食のテーブルマナーを勉強した覚えがあります。実際は、周りを見ながら、えいやーっと。

 日本人は目でものを言い、西洋人は口で表情を作るとの件、確かにドラマで「歯を見せて挨拶!」(要は、にっこりするように)と言われて、元大統領夫妻に、にっと歯を見せて挨拶すると、硬い表情だった大統領夫人もにっこりと表情が変わり、敵意が無いことが通じたようです。

 賓客のおもてなしに張り切っていた千代の死は、哀しいできごとでした。コレラとのことですが、感染病は貧富の差を問わず、というのは現在のコロナ禍も同様です。伯爵陸奥宗光の娘は腸チフスで、20歳で亡くなりました。今も昔も流行病には、罹らぬように、神頼みをするのみだというのは、つらい話です。

  西南戦争で、士族の反乱が収まると、自由民権運動が盛んになってきました。薩長藩閥政治を阻止し、憲法制定・国会開設を求め、言論と集会による政治改革を求める世論が激しくなりました。

 英一が援助する養育院は先行きが怪しくなり、立ち上げようとした会社は成り立たずと、若いころの栄一は、順風満帆とはいきませんが、そこは栄一、踏ん張りました。なぜか、伊藤博文と仲が良い英一です。五代といい、外国通で岩崎よりは話が合うのでしょうが。

 明治14年、伊藤が大隈を失脚させるため、政変を起こしましたが、背景には憲法制定がありました。ドイツの国情を学んできた伊藤はドイツ流の専制主義が強い憲法を押し、大隈はイギリス流の議会色の強い憲法を押していましたが、岩倉は天皇の専制色の強い伊藤の案に組みしました。ということで、大隈を内閣から追い出そうとした伊藤が、北海道官有物払い下げ事件をうまく利用したというのが真相です。  五代が言っていたように、五代自身は「とばっちり」なのですが、薩摩の侍は黙して語らず(明治初期より北海道経営を進めた薩摩系が膨大な赤字を出したのは事実です)で、いまだに教科書に五代は政商と書かれていますが、近年の研究により、状況は変わりつつあります。

 官有物払い下げの最初の一報は、五代批判で世間をセンセーションに騒がせました。後に五代擁護の記事が出たものの、こちらはほとんど注目されなかったとのことです。世間が扇動的な記事に煽られるのは、これまた、今も昔も変わらずのようです。

 西南戦争で、税収の9割が戦費で消えたと栄一たちは嘆いていました。一方、西郷が不平士族たち(職のない時代に突然のリストラですしねぇ)を引き連れて、内戦を起こしたものの、政府側の勝利で、今後の日本での内戦の心配がなくなりました。戦後の明治10年代以降は、日本の経済が振興した時代でした。

 写真は明治11年に設立された大阪商法会議所跡です。当地は、現在、中央区高麗橋の三菱UFJ銀行ですが、以前は三和銀行でした。三和銀行は鴻池家が作った銀行なので、当地を商法会議所に融通していたのでしょう。建物は新しく変わりましたが、跡碑は新しいビルになっても、設置されました。朝の連続テレビ小説「あさが来た」で、あさが五代を商法会議所によく訪ねていましたが、ドラマ上の話とはいえ、場所は当地ということになります。 この時期、まだ日本には工業は進んでいず、商工会議所になるのは、昭和初期です。

 

  写真の場所は中央区淡路町3丁目の交差点南西側にあった専称寺の跡地です。幕末期は、大坂に来た時の勝海舟の寓居になり、坂本龍馬や望月亀弥太、近藤長次郎らが学んだ大坂海軍塾の跡地でもあります。明治になって、五代が主催した商法会議所の創設準備会議の場所にもなりました。当寺は、浄土真宗の寺で、道場があったことが土地台帳に記載されていますので、多くの人が集まることができました。五代は、長﨑時代に龍馬から専称寺の話を聞いていたのかもしれません。五代の自宅からも近いです。

 当地に建てられていたビルの向かって右隣のビル看板縦棒に、石碑代わりに専称寺の跡地を示す銘板を貼らせていただきましたが、ビルの建て替えで、その銘板が撤去されていました。このままで終わるのかと思いきや、ありがたいことに新ビルの前面に銘板碑を建立していただきました。ビルのオーナー様のご厚情に、感謝しております。この碑が変わった形をしているのは、こういった事情があるからで、できれば、きちんとした石碑と銘板を設置させていただきたいと願っています。  

  淡路町近く、御堂筋沿いに北御堂があります。このお寺の、向かって左手側の1階に、北御堂ミュージアムが近年、創設されました。内部の展示は、仏教関連もありますが、当地と関わる歴史関係の展示もあり、興味深いです。

   勝や龍馬、五代の説明版が展示されています。休日も開館、無料ですので、お近くへお越しの折には、見学されてみてください(地下鉄本町駅上がってすぐ)。

 ミュージアムの展示に慶喜に関する記事がありました。大政奉還後、大坂城にやってきた前将軍に、何を贈ろうかと考えたお坊さんたち、とりあえず、カステラでも贈っておこうとされたのだとか。迎えた大坂側も対応に苦慮、というところでしょうか。カステラは当時でも、高級な贈答品だったようです。

 北御堂は、慶応4年3月23日から44日間、大坂に滞在された明治天皇の宿所でした。跡碑が建立されていたはずですが、現在、見当たらず、空襲で破壊されたものと思われます。 #大阪#カステラ

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