「勅命」は偽りだった。郷は知らぬ間に朝敵の汚名を負い、郷民はいま塗炭の 苦しみにさらされている。野崎としては、死をもって朝廷や郷民に詫びるしかなかった のでしょう。割腹したのは九月二十四日の午後で、責任はすべて私にある。 死をもってお詫びするから、郷には格別の御慈悲を賜りたい旨の遺書を残しています。
彼の有名な辞世の句を残して・・・
討つ人も討たるる人も心せよ、同じ御国の御民なりせば 野崎の自決は郷を暗然とさせたのはいうまでもありません。 主税はただちに庄司会議を招集して、追討勢の狼藉如何に拘わらず、郷は最後まで天皇 に変わらぬ忠誠を尽くそうと、郷民を鼓舞する一方、野崎の遺書を藤堂新七郎に届け、中央へ進達してくれるよう頼んでいます。
藤堂も駐留中にいろいろ事情を知って、郷に対する認識を改めていたらしく、早速、 京都守護職松平容保のもとへ報告の使者を出してくれたといいます。 主税たちは、郷の平安のため、一日も早い撤兵命令を出してもらいたい。 野崎主計の遺書を読めば真実がわかってもらえる筈だと、期待をかけて待ちました。 京からの吉報は意外にも早く、しかも思いがけない方面からもたらされたのです。
何と、朝廷の伝奏方から、中川宮の「ご意向」として伝達されたのでした。 もっともこれは、藤堂のさきの報告に対しての返事ではなく、それより以前、九月二十一 日付で、伝奏方が津藩主の藤堂和泉守に伝達を命じたもので、それが二十七日、よう やく前線の藤堂新七郎のもとに届き、郷に伝えられたそうです。 内容については「十津川記事」から、読み下し文にすると次のようになります。
十津川郷士ノ内、先日以来乱暴ノ者コレ有ル由風聞候、元来罪無ク候所、元中山侍従等 ニ組シ候得バ違勅ノ名免レガタク、其罪軽カラズ、右ノ心得違イコレ有リ候テハ、ヨン ドコロナク罰セラレ候、左候節ハ甚ダ不ビンニ思召サレ候間、コノ趣意厚ク相ワキマエ 、朝敵ニナラザルヨウ致スベク、相論ジ候様ト御沙汰ノ事。
もって回った言い方だが、要するに朝敵にならぬようにせよ、と言っており、逆に言え ば朝敵にしてはならぬ、というご意向ではないだろうか。
~十津川草莽記~
この通達で、郷は破滅の危機を免れ、以後、中川宮は郷の救世主として、郷士の胸に 刻み込まれることになります。 さて、十一月十三日、在京郷士うち揃って参内、お礼を言上し、翌日から本来の任務で ある「御守衛」に戻ることになりました。 八月末から十月末までの二ヶ月間は伝奏野宮定功の命で、市中の巡察に当たってきたが 郷士らの理想にほど遠いものでした。それだけに、御守衛への復帰が決まった時、郷士 らの喜びを爆発させたといい、その様子は他藩士にも感慨を与えたらしく、会津藩の 外島機兵衛は、次のような歌を詠んで郷士らに贈ったといいます。
ひとたびはかき濁せどもすみかえり 清き名流すとつかわの水
郷士らもまさに、そんな心境だったのでしょう。彼らは復帰への道を開いてくれた 中川宮に深く感謝し、宮への傾倒を一層深めました。
御守衛春秋編に続きます。
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