禁裏勤務を再開した郷士らは、以後、明治元年(1869)四月八日にお役御免になるまで、御守衛として仕えました。 その間の満四年五ヶ月、幕末史は孝明天皇の崩御から徳川慶喜の大政奉還~王政復古 の大号令~戊辰戦争へとめまぐるしく動き、京洛では諸雄藩が尊王・佐幕それぞれの 盛衰をかけて、凄まじい争いを展開します。
十津川郷士も禁裏守衛という立場から、否応なしにその渦に巻き込まれ、様々な舞台で走り回ることになります。 ところで、その御守衛勤務ですが、意外なことに、郷士は長い期間、肝腎の禁裏諸門や御殿の警衛にはつかせて貰えなかったようです。
記録でみる限り、初めて蛤御門の警衛を命じられ、さらに二百人全員が紫宸殿の前庭に屯して、御所の守衛に当たることになるのは慶応三年(1867)十二月上洛して実に四年後でした。
「十津川記事」の記録によると、 元治元年(1864)二月に中川宮と議奏、伝奏両職の護衛を命じられ、衛士四十名が各邸に四名-五名ずつ交替で詰めたことを皮切りに、同年七月には下加茂神社の神廟警固を命じられ、慶応元年(1865)三月には、江戸・日光への勅使に発った伝奏の飛鳥井雅典を護衛、さらに同二年七月には、病気の将軍家茂を見舞うため、大坂城へ下った飛鳥井卿の護衛を務めたことなど、細々と記されているものの、禁裏の御守衛に立ったという記述は、慶応三年になるまではないという。 続く
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