春には柿の花が咲き
秋には柿の実が熟れる
柿の木坂は駅まで三里
思い出すなァ ふる里のョ
乗合バスの悲しい別れ
春には青いめじろ追い
秋には赤いとんぼとり
柿の木坂で遊んだ昔
懐しいなァ しみじみとョ
こころに返る 幼い夢が
春くりゃ偲ぶ馬の市
秋くりゃ恋し村祭り
柿の木坂のあの娘の家よ
逢ってみたいなァ 今もなおョ
機織りながら暮していてか
昭和の名曲「柿の木坂の家」の歌詞である。石本美由紀が作詞、船村徹が作曲、そして歌ったのが青木光一。
歌謡曲の場合、故郷を思い浮かべて歌った曲が多いが、その故郷は何処なのかが明白に歌われていない曲もある。この「柿の木坂の家」もそのひとつである。
日本には「柿の木坂」の付いた場所や町名はいくつかある。 東京の目黒区に「柿の木坂町」という地域がある。ここがこの歌の舞台であろうと思っている方も少なくない。
しかし、「柿の木坂は駅まで三里~♪」という歌詞のフレイズで、この目黒の柿の木坂町が当てはまらないことがわかる。では一体、この歌の「柿の木坂」はどこなのか。
いろいろ調べてみると、この歌の「柿の木坂」の舞台は、広島県廿日市市であることがわかった。
廿日市市の明石峠付近の坂がそれであるようだ。
明石峠から廿日市駅までは約10Km。「柿の木坂は駅まで三里~♪」大体つじつまが合う。明石峠は汐見峠とも言われ、坂上からは瀬戸内海がよ~く見渡せる場所である。汐見峠というだけあり、瀬戸内海がよくみわたせる。明石峠のは柿の木は見当たらないが、峠のふもとのは柿の木がある。
さて、「江戸の坂道」というテーマなので、東京目黒区の「柿の木坂」の話をしよう。
「柿の木坂」は、環七通りと目黒通り、そして柿の木坂通りの三本の道で区切られた閑静な住宅地。そのほぼ中央を呑川の浅い谷が縦断しているところから、その名のとおり全域がゆるやかな傾斜地だが、この地名「柿の木坂」は、元来は、環七通りの交差点から都立大学駅辺りまで下る目黒通りの坂の名。現在は真っすぐでなだらかだが、かつての「柿の木坂」は、西側へ大きく湾曲した急坂で、神田や京橋の市場へ野菜を出荷するため、この坂を通らなければならない目黒や世田谷の農民たちにとって、道中屈指の難所であった。
東京目黒区の柿の木坂地区
この坂名の由来については諸説があるようだ。
この坂のそばに、大きな柿の木があったという説。この辺りには柿の木のある農家がたくさんあり、農民たちは野菜と一緒に柿を大八車に積んで、この急坂を上った。ここで活躍したのが付近の悪童たちで、車を押すのを手伝うふりをしながら、あるいは農民たちが一台を押し上げては次の車を上げるために坂を下りるその間に出没して、車から柿を抜き取っては逃げた。すなわち、「柿の木坂」は「柿抜き坂」が転じたもの。
枝もたわわになった柿の木がよく見える坂だった。
坂の両側には人家が少なく、夕暮れになると人の行き来のない寂しい坂だったので、人びとはこの坂を駆け抜けて通った。すなわち「駆け抜け坂」。
なお、現在の東が丘と八雲の一部とともに「東根」の名で呼ばれてきたこの地に「柿の木坂」(当時は「柿ノ木坂」)の町名が採用されたのは、目黒区が誕生した昭和7年のことである。
昭和7年、目黒区が成立したときに荏原郡碑衾町大字衾の小字東柿木坂北、東柿木坂南、東三谷、東下通、東谷戸、東曾根、東中丸が目黒区柿ノ木坂町となった。昭和40年に柿ノ木坂町に中根町の一部を合わせた地区に住居表示が実施され、坂に近い南東から、柿の木坂一丁目、柿の木坂二丁目、柿の木坂三丁目となった。
柿の木坂通りの街並み
柿の木坂二丁目は、目黒区の環七通り沿いの坂にある。柿の木坂は町名として一丁目から三丁目まであるが、バス停のあるのは二丁目。柿の木坂自体は、もともと環七通りの交差点あたりから都立大学あたりまでの坂の名前だった。
このマガジンでは江戸の坂道をいくつか紹介してきたが、目黒区に坂が多いことがわかる。
目黒区に限らず、東京には名も知らない無数の坂道があり、東京の街は坂道で成り立っているのだ。
2024年春季号 vol.5
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