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ザ・戊辰研マガジン

2022年08月号 vol.58

和宮と環翆楼

2022年08月04日 13:38 by norippe
2022年08月04日 13:38 by norippe

 仁孝天皇の娘であり孝明天皇の妹である和宮親子内親王は、幕府と朝廷の公武合体政策のため、文久2年に14代将軍・徳川家茂のもとに嫁いだ。夫婦仲は大変良かったが、夫・家茂が慶応2年、第二次長州征討のため出陣中に大坂城で死去したため、落飾して静寛院宮と称された。

 王政復古後、新政府軍が江戸城攻撃へ東征をすすめると、和宮は有栖川宮総督に嘆願文を送るなど婚家の徳川家の存続のため力を尽くした。姑の天璋院篤姫とは大奥での出会いの当初は「ライバル」としての確執があったものの、徳川家の苦難の時節を共有するうちにうち解け、維新後も親しく交流がつづけられていたといわれている。

 明治2年に和宮は京都に里帰りし、4年ほど滞京したあと東京に戻るのだが、明治10年に体調をくずした。病気療養のため箱根・塔ノ沢にある「環翠楼」で療養することになった。
 環翠楼に長期滞在した和宮は、村の子供達を館内に招き、菓子などふるまわれ村人と親交を深められた。和宮は甘い物が好きで、それが原因で病に侵されたと言われている。


環翆楼

 箱根七湯と将軍家の縁が育まれた背景には、御汲湯(献上湯)の慣例があった。江戸時代の正保元年から宝永三年にかけて、この地域の温泉を湯樽に詰め、箱根山を下り江戸城まで遠路運搬された記録が残されている。 元湯と将軍家との直接的な縁は、この和宮が病気療養で登楼したのが始まりだった。

 環翠楼の下を流れる早川は、今よりも急流で川音も大きかったため、当時の楼主で塔ノ沢村の戸長でもあった中田暢平が主導し、川に流れ止めの柵を掛け、水流を和らげる工夫をした。この行いに和宮はとても喜ばれ、労いの歌会を催した。しかしその後、和宮の容態が急変し薨去。32歳という若さであった。

 天璋院篤姫が和宮終焉の地となったこの環翠楼に行きたいと登楼し、流れる早川を眺めながら号泣されたと言われている。
 「君が齢 とどめかねたる 早川の 水の流れも うらめしきかな」
 元湯で、その時の心情を句に残している。
 和宮が薨去した後、7回忌に間に合わせるため元湯当主と勝海舟が「静寛院宮に奉る歌」として碑に残した。
 「月影のかかるはしとも しらすして よをいとやすく ゆく人やたれ」


 環翠楼は、慶長19年に箱根・塔ノ沢に湯治場「元湯」として開かれた。水戸光圀が来訪したとの記録もある。近代では、なき和宮をしのぶ旅の宿とした天璋院や、伊藤博文、孫文、夏目漱石、菊池寛といった政治家、文人など数多くの著名人が逗留した湯治場である。

 遊興が盛んになった明治の末頃、湯本・塔之沢・宮ノ下・堂ヶ島・底倉・木賀・芦之湯の箱根七湯(箱根の代表的な湯治場)はたいへんな賑わいであった。その中でも、多数の旅館が軒を連ねる塔ノ沢温泉は、とくに人気が高かったと伝えられている。この時期に当館を訪れた人物のなかでも、とくに縁が深かったのが、幕末志士の一人であり日本の初代内閣総理大臣も務めた伊藤博文であった。

 伊藤博文はこの環翠楼を定宿として度々訪れ、大広間で酒宴を催した。実は、当時の“元湯鈴木”という名称に加え、“環翠楼”という新たな屋号を贈ったのも博文だったのである。伊藤博文が当時の楼主である鈴木善左衛門に贈った漢詩「勝驪山 下翠雲隅 環翠楼頭翠色開 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯」のなかに表記された「環・翠・楼」の三文字がその名の由来とされる。雄大なる山々の緑色が映える楼閣のイメージが、その三文字の中に込められているのだ。


大広間

 この伊藤博文の作による漢詩の中に出てくる“勝驪山”というのは、古くから用いられてきた塔ノ沢のもうひとつの呼び名であった。かつて水戸光圀とともに塔ノ沢を訪れた儒学者の朱舜水は、この土地の美しさと泉質のよさに感動し、明代の中国で最上の温泉地であり、歴代皇帝の別荘地でもあった驪山にも勝るという意味で“勝驪山”(しょうりざん)と名付けた。以来、“勝驪山”は塔ノ沢の代名詞となっている。
 明治28年に、訪日中のロシア皇帝ニコライが滋賀県の大津町で斬りつけられ、日本中を震撼させた「大津事件」、その一報を伊藤博文が聞いた場所も環翠楼での宴席だったとのことである。

 和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は、現在の東京プリンスホテルの場所にあったが、1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬された。その際の調査結果をまとめた『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によると、和宮の血液型はA型かAB型で、身長は143.4cm、体重34kg(いずれも推定)であり、骨格の形状から極端な反っ歯と内股が特徴の小柄な女性であったと推定されている。この際、左手の手首から先の骨がいくら探しても見つからなかった。増上寺にある和宮の銅像や日本女子会館にある和宮の銅像も左手は不自然に隠れており、また肖像画には左手が描かれていないことから、彼女が生前何らかの理由で左手首から先を欠損していたのではないかとの推測もある。


増上寺徳川墓所にある和宮の墓

 古墳はともかく、陵墓や陵墓参考地の大半が宮内庁の方針により事実上の学術調査不可となっている現在、和宮は墓所が発掘調査された数少ない皇族であった。


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