栄一、雄飛する
明治十年代、自由民権運動が盛んになってきました。世論が政治に影響を与えるようになってくる時代の到来です。
英一は商業活動に励んでいますが、商売敵の岩崎弥太郎は、「売られた喧嘩は正面から買うてやる」と、剛毅ですねぇ。共同運輸対三菱商船の間で、商戦が始まりました。こういった民活は結構なことですが、やり過ぎると共倒れになり、危険です。栄一の商才は大したもので、あのここぞという時の決断力は見上げたものです。史上、稀に見る才能なのでしょう。
五代が英一に三菱との和解を持ち掛けますが、英一はとことん岩崎と戦うと応じず、伊藤も自重せよと告げていました。しかし、岩崎は病いに倒れ、英一の戦いは手打ちとなりました。五代は最後の仕事として、日本の海運業発展のためには、三菱と共同を共に潰さぬようにと、調停を図っていました。
英一は五代に頭を下げ、五代は「おいが死んでも、おいが作ったものは残る。いささかも天地に恥じることは無いが、これからの日本の発展を見たかった。日本を頼む。」と、告げました。
明治18年9月25日、五代は東京で亡くなりました。享年49歳。糖尿病だったと伝わります。東京で療養していたのでしょうが、この年の6月、大阪は大洪水に見舞われ、淀川にかかる天満橋・天神橋・難波橋という三大大橋が落ちるほどでした。
大阪市中は三カ月間、水につかったと伝わり、大阪に帰れなかったではないかと考えます。9月になって、やっと、水が引いたところへ、五代の遺体が戻ってきました。葬儀を大阪でと図ったのは、西郷従道や松方正義ら、薩摩人の五代の友人たちでした。先行投資していた100万円の借財を、五代の資産を整理して、処分したのも友人たちでした。五代は、金は残しませんでしたが、日本の経済の発展に多数の種を撒いて逝きました。大阪人は、五代の銅像を5体建立し、その功績に報いています。
東京開市300年とのことで、旧幕臣たちの懇親会が行われていました。20年間、生き延びた幕臣たちも、それぞれの分野で活躍するようになってきました。「渋沢を見出したのは、平岡の慧眼であった」と、慶喜が話していると、正妻の美賀君が平岡の妻、やすに告げていました。その通りです。平岡に出会わなかったら、英一は血洗島で藍玉と養蚕の商いで、近隣に鳴り響く超豪農になっていたことでしょうが、やはりそれだけでは日本の損失です。
一橋家に入り、世に出ていったことが、英一の勇躍のきっかけになったことは間違いないです。栄一は、明治期に、平岡家を援助していたと伝わります。
商売には順風満帆な英一ですが、後継ぎには苦労していたました。こればっかりは、向き不向きがあります。船場の商人は、商才のない息子に家を継がせず、娘に優秀な婿をもらって後継ぎにするといった風習がありましたが、これは商売人の智恵なのでしょう。栄一は嫡男を廃嫡し、その息子を後継ぎとしましたが、この孫の方は幸いにして、有能でした。
日清、日露と日本も国際戦争の時代に入ってきました。弱肉強食であった帝国時代の背景があるとはいえ、250年間、戦争で庶民が亡くなることが無かった地方分権の江戸期と、明治維新以降、昭和20年までの77年間で300万人以上の国民が戦争で死んでいった強力な中央集権の時代と、戦後77年たった2022年、比べてみれば感慨深いものがあります。
写真は現在、大阪市西区靭(うつぼ)公園の北東角にある技術科学センターです。当地は明治期には北靭通と呼ばれた場所で、明治初期から18年まで、五代友厚邸でした。明治8年の大阪会議の折に、大久保利通が滞在したのも当地です。
幸い、空襲を免れ、昭和30年代まで屋敷が残されていましたが、残念ながら取り壊されてしまいました。技術科学センターには、五代邸の場所の記憶を示す展示があります。そこに、鬼瓦が展示されていて、五代邸にあったものとのことです。何でも、屋敷を解体する際に、近所の方がいただいた物だそうです。
こちらは現在、大阪市北区中之島にある国立銀行大阪支店です。北靭通の屋敷の方は、長女夫妻に譲り、この建物の西側の部分、旧島原藩蔵屋敷跡に、明治18年初頭、五代が新邸宅を建てました。五代の葬儀が行われたのも、こちらです。実際に主人が住んだのは、わずかな期間でした。
五代は新居建築に合わせたのか、この時、本籍を鹿児島から大阪に移しました。北区の住民だったことから、「北区史」に登場します。 残念ながら、上記二カ所には五代邸跡を示す石碑も銘板もありません。ぜひとも、建立したいものです。
写真は大阪市阿倍野区にある阿倍野墓地の五代の墓所です。墓所は墓地の中央付近にあり、鳥居もある、大きな墓です。大阪にお越しの際には、墓参りをされてはいかがでしょう。
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