バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2022年09月号 vol.59

十津川郷士⑪(御守衛春秋-転々とする屯所)、続き

2022年08月23日 17:12 by tama1
2022年08月23日 17:12 by tama1

 その間、動拠点となる十津川屯所(郷士詰所)も転々としています。 最初の屯所、寺町三条下ルの「円福寺」にいたのは、ほんの十日ほどで、その後梨木町の「三宝院御里坊」に変わり、さらに二十日後の九月八日(文久三年)、伝奏の野宮定功から市中巡察を命じられたのを機に、宮門内の「妙法院宮御里坊」に移転しており、それからほぼ十ケ月後の元治元年七月、禁門の変の後、下加茂神社の警固を命ぜられ同社の「神宮寺松林院」に移り、同年十一月十八日、同社の警固を免じられると、今度は梨木町の「大乗院御里坊」に屯所を移しています。 新烏丸切通(現在の京都府立鴨沂高校付近)にあった円満院宮家の所有地を借り、郷里から大量の木材を伐り出して、自前の「十津川屋敷」を建てるのは、それから五ヶ月後の慶応元年(1865)四月とあります。  

 

 「十津川屋敷跡地碑」 2009年11月建立 十津川村教育委員会 京都市上京区下切通新烏丸東入北側

  この詰所の位置は「文久改正内裏御絵図」でも確認できます。 以上の記録を見るに、郷士はもっぱら宮家や公卿の警備、護衛、神社神廟の警固などを命じられ、命令の都度、屯所まで移して浮草のように、洛中を転々としていたらしいことがみてとれます。 西田正俊著「十津川郷」に収められている植西靱負(うえにしゆきえ)という郷士の 履歴はその辺の事情を端的に物語る好資料とされています。

 植西は湯之原村の生まれで、元治元年六月、十七歳の時初めて御守衛人衆に選ばれて 上洛し、最初は妙法院宮の御里坊にあった屯所に詰め、同僚数人と寺町広小路の議奏 六条大納言邸を警衛、翌慶応元年五月から十二月まで、伝奏野宮定功の警衛を務めた。そして翌二年二月から五月まで飛鳥井雅典、六月には正親町三条実愛を、それぞれ護衛し、慶応三年四月には、同士十二名の組長に選ばれて賀陽宮(中川宮)邸を警固、同年十二月十日になって、同僚とともに初めて蛤御門の御守衛を仰せつけられたといいます。 京都の霊山歴史館には「京都御守衛持場所」と題した刷り物が保存されているそうです。

 禁門の変に続く

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…