東京、日本橋を北へ渡り川沿いの道路を東に進むと、次は江戸橋である。二つの橋は、いずれも日本橋川に架けられた橋だ。明治28年(1895)7月発刊の東京郵便電信局の地図によると、日本橋から江戸橋付近の両岸は魚河岸となっている。さらに、江戸橋を過ぎた辺りで日本橋川の護岸から北に向けて二本の運河が在り、その両岸もやはり魚河岸である。その地図は、江戸から東京へ、大消費地を支えた日本橋魚市場の巨大さを良く示している。
この辺り一帯は、江戸(東京)湾から隅田川を経て日本橋川へ至る水運による魚介類の集積場だった。一帯におびただしい桟橋が設けられ、そこに無数の小規模な舟(平田舟)が舫い、毎日、魚介類のやり取りが行われていた。江戸の最盛期には一日千両もの取り引きがあったというし、明治以降では人口の増加に伴いさらに増えたと考えられる。
徳川家康の指示で造られた日本橋川の魚河岸は、江戸と東京の人々の魚食文化を支える大規模な市場へと発展していった。その魚市場は、大正12年(1923)に関東大震災で焼失し築地へ移転するまで、ずっと存続していた。
今、日本橋北詰の東側に「日本橋魚市場発祥の地」碑と「竜宮城の乙姫」像が並んで立っている。乙姫像は江戸っ子の粋な謎かけである。で、そのこころとは……。
日本橋魚市場発祥地碑と乙姫像
明治9年(1876)10月、日本橋小網町で思案橋事件が起きる。旧会津藩士で斗南・田名部に流された永岡久茂とその同志が、長州の前原一誠の蜂起に呼応し起こした新政府転覆未遂事件である。永岡らは思案橋から舟で千葉に向かい、千葉県庁を襲う計画だった。しかし計画は、出発直前に橋の袂で発覚し、失敗に終わる。
捕らえられた永岡は、翌年初め獄死する。永岡らの行動は、旧会津藩に対する新政府の過酷な弾圧とそれを主導した木戸孝允への糾弾だった。
魚河岸の発展拡張に伴い造成された東西二本の運河のうち、東側の運河入口に架かる小さな橋が思案橋である。つまり思案橋は、日本橋川に架かる橋ではなく、その流れと平行に架けられた橋だった。
28年の地図と現在の地図を重ねると、思案橋の位置は中央区小網町児童遊園内であることが分かる。ただし、運河は埋め立てられ、橋の痕跡も無い。園内に、思案橋事件を示す碑なども立てられていない。
さ らに現在、日本橋川上空は首都高の高架道路で覆われ、かつての魚河岸の賑わいを示すものはどこにも無い。日本橋辺りで首都高速道路の地下化の計画が進んでいるようだが、早く実現して日本橋魚市場の面影を取り戻し、思案橋とそこで起きた悲しい事件の顛末も残せるよう願っている。
小網町児童遊園を出て川沿いをさらに進むと、日本橋川に架かる次の橋、鎧橋に出合う。それを渡って対岸を日本橋の方へ戻ると、繁華のなかにひっそりと座る兜神社とそこに祀られる兜岩を見つけた。「鎧橋」と「兜岩」は、いずれも11世紀の源義家東征における伝説に由来して名付けられた。
新政府軍による理不尽な東征に敗れ、再起を期した計画も失敗に終わった旧会津藩士・永岡久茂の無念の地が、今から千年ほども前の東征に縁りのある兜神社と川を挟んで向き合っている偶然を見つけた。
兜岩(手前)と兜神社・社殿
渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行)はこの辺りに設立され、有価証券の売買が行われる東京証券取引所も近くだ。昔も今も日本経済の中枢である周辺は、日本橋兜町と呼ばれる。
それは、東京メトロ・日本橋駅から出発し同じ駅に戻る、二時間ほどの小さな旅だった。
どんな街の片隅にも、こうした史実に触れられる場所がきっとあるはずだ。毎日を忙しく過ごし急ぎ足で通り過ぎている街の中にも、少し立ち止まると何かを発見するかもしれない。
これからしばらくのあいだ、そんな都内の幕末維新にまつわる史跡を巡ってみたい。
鈴木晋(丹下)
次号、「西應寺、最初のオランダ公使館」
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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