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ザ・戊辰研マガジン

2022年09月号 vol.59

みちこの幕末徒然、「玉島」

2022年08月29日 16:05 by minnycat
2022年08月29日 16:05 by minnycat

 倉敷に残る岡山県内では珍しい戊辰戦争の史跡を訪ねて来ました。戊辰戦争は、京都から北上していきますから、西日本に戊辰戦争の史跡があるのは珍しいことです。

 倉敷市の玉島という港町、古来より物資の集散地として栄えていました。中心市街地の商店街周辺は港町で栄えた往時の面影を残しています。西爽亭は、その保存区にある備中松山藩に仕え、代々庄屋を務めた家です。平成5年(1993)、倉敷市に寄付されました。

 

  備中松山藩主の板倉勝静と新島襄が仕えていた安中藩の板倉勝殷は 親戚同士で、安中藩は備中松山藩の分家でした。 備中松山藩の行財政は破綻寸前でしたが、あの山田方谷が十年で見事に再建させ、その成果の一つとして洋式帆船「快風丸」を米国より購入、 倉敷の玉島を拠点に貿易に使うことになりました。

 山田方谷の推薦で松山藩に登用された玉島出身の漢学者川田甕江(おうこう)が 洋式帆船の購入を上申し、川田甕江は安中藩の儒学師範を兼ね同藩の新島襄を教えてもいました。 当時軍艦の操練所で訓練を受けていた新島襄に乗船を要請し、新島襄は玉島へ寄港することになりました。 キリスト教を学ぼうと志した若き新島襄が幕末・備中松山藩士らの支援で渡米を果たします。そして、帰国後、年同志社英学校を設立。そして、再度、高梁を訪れキリスト教の神髄を伝授し、 明治15年高梁基督教会の設立となります。

【西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825~1868)】  備中松山藩士・熊田恰は,慶応4年(1868),鳥羽・伏見の戦いの際,幕府方の藩主・板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。

 板倉勝静から帰藩の命を受けた恰は,備中玉島港に上陸しますが、松山藩は鎮撫使の征討を受けており,恰の帰藩を認めなかったのです。事情を知った恰は,行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し,玉島の庄屋・柚木家の西爽亭の次の間で自刃しました。

 この史実は,熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い,その結果,幕末の戦禍から玉島が救われた話として有名です。

  この部屋です。天井まで血痕が付着していたとのことです。

 

  

 各部屋にはこのような説明板が飾られています。

 

 

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