青天を衝け40・41回
栄一、天晴!
歴史作家、星亮一氏がお亡くなりになりました。星氏は長年に渡り、奥州会津松平家家中の戦いを中心に、幕末史を丁寧に描かれました。筆者も、氏の的確なご指摘と、深い洞察に感銘を受け、御著書から多くのことを学ばせていただきました。本ブログを書く際にも、星氏の近著「天才 渋沢栄一~明治日本を創った逆境に強い男と慶喜~」(さくら舎刊)を参考にさせていただきました。先達のお仕事に対して、深く感謝するとともに、その御功績を称えたいと思います。
さて、星氏同様に、長く活躍した英一の人生も晩年になってきました。実業界を引退した英一は、もっぱら慶喜の復権を目指して、慶喜の伝記作成と民間外交に励んでいました。栄一は数百の会社を作り、それらを次々と後継者に渡し、継承を図りましたが、栄一がえらいのは会社を私物化せず、それぞれが持続して継続していけるように、後継者を育てたことにあるのでしょう。
大河ドラマの主役が長生きすることは、ゆかりのある人々が次々と、先に亡くなり、寂しくなるということでもあります。大河ドラマ「八重の桜」の時も、昭和まで生きた新島八重は、会津戦争を共に語れる友人が少なくなったと嘆いていました。栄一も、幕末の騒乱を語れる友が少なくなってきました。後世に伝えていけるように、自分たちの命があるうちにと、慶喜の口述を即していました。
慶喜にとっては、鳥羽伏見の戦いが痛恨の出来事であったようで、戻れるなら、どの時代に戻りたいかと問われて、「鳥羽伏見の戦いの前へ」と応じたと読んだことがあります。慶喜にしてみれば、大政奉還は納得できる策だったのでしょうが、鳥羽伏見の戦いは想定外の出来事だったようです。
京都周辺の五畿内(現、兵庫県、大阪府、京都府、奈良県、滋賀県)と紀州(和歌山県)の主要地は、関ケ原、大坂夏の陣以降の家康の深慮遠謀により、ほぼ、幕府の直轄地か譜代、親藩の領地で、禁門の変までは幕府側に機能しました。本来なら、大坂城を根城にして、この五畿内一円と紀州に大号令をかけて、在京の薩長軍に当たれば、数で勝る旧徳川軍が負けるはずは無かったでしょうに。初戦で負けたことが、後々の戊辰戦争で旧幕府軍不利に働きました。
遺言まで遺したものの、大病を克服した栄一、そこから復活して、91歳まで元気に過ごしました。素晴らしい!英一の長い人生も、無病息災であったわけではなかったのですが、やはり、長生きした者が勝ちです。 晩年、大勢の孫たちに囲まれた英一が語ったのは、幕末期、京で新選組隊士と共に、白刃の下をくぐった出来事でした。本ドラマでは、この土方ら新選組と共に戦った時が、最も英一にとって命の危機だったということなのでしょう。
亡くなる直前まで、公益のため、国のために尽くした英一の生涯は天晴(あっぱれ)でした。素晴らしいドラマを紡ぎ、楽しませていただいた大森美香さんと、最後まで全力で演じていただいた吉沢亮さんに感謝です。 コロナ禍が無ければ、例年通り、NHK主催の展覧会があったはずですが、今回の大河ドラマでは企画されず、残念でした。渋沢家は没落していないので、大量に資料が残っていることでしょう。先日、岐阜市で開催された、「麒麟がくる特別展」の図録を見ましたが、興味深い史料が目白押しでした。今年の「鎌倉殿の13人」展も開催されれば、さぞやと思います。
2022年は久しぶりに源平合戦を楽しみに、大河ドラマを拝見させていただきます。
大河ドラマに関連する衣装展は開催されました。例年なら、小道具なども多数出展されるのですが、衣装とパネル、出演者の皆さんのサインのみの展示でした。
衣装やパネルは撮影可能とのことで、撮ってきました。徳川慶喜と渋沢栄一の衣装です。
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