斗南か猪苗代か?
猪苗代は本当に候補地だったのか?
戊辰戦争、会津藩降伏の1年2ヶ月後の明治2年11月、生まれて間もない松平容保の子「容大」に、陸奥国において三万石の地が与えられることになった。
藩の再興が許されたのであり、藩士らにとってこの上ないうれしい出来事であった。 その少し前、若松では駐留官兵の乱暴狼籍が後を絶たず、これを知った幽閉中の藩士が脱走して、官兵を襲撃するという事件が度々起きていた。事態を憂慮した巡察使四条隆平は、 会津藩士が命令を聞くのは藩主しかいないと考えた。幼くとも藩主は藩主、そこで政府は容大に対し藩士の脱走や暴挙が起こらないよう、取締りを命じたのである。
藩士が命令に従わなければ容大の責任となるから、侍としては絶対にこれは守らなければならない。間もなく脱走も無くなり、この功があって9月29日太政官より容保らの罪が許され、血脈の者、容大をもって家名再興が認められることになった。
11月24日には陸奥国3万石の支配を命じられ、場所は会津の遥かに北の三戸郡、北郡、二戸郡と決まった。
この時、会津藩時代の江戸藩邸はすべて没収されていたので、2年末新たに東京藩邸として外桜田、新し橋のつきあたり、旧狭山藩邸が与えられ、翌3年3月普請が成った。5月には藩名も正式に斗南藩と決まった。これは「北斗以南、皆帝州」つまり北斗七星より南は皆、帝の土地であり、皆その臣民であるという意味からつけられた。
陸奥国は広い。南は現在の福島県から北の青森県まで、西側の出羽国以外が陸奥である。 3万石はこのうち元南部藩領の三郡で与えられることになった。この頃旧会津藩士らは3年1月に謹慎幽閉を解かれ、謹慎地の東京と越後高田(現新潟県上越市)、また一部の藩士は降伏後も戦後処理や婦女子の係りとして、若松にそのまま在住していた。3ヶ所に分住していたため意思の疎通を欠くことも多く、新領地が遠く旧南部領と知った若松在住組の町野義加(34歳)らは激怒した。若松組の意見は「会津は祖先以来墳墓の地であり、会津地方で新町野主水封地を得たい。遠く南部に移住するのは絶対反対というのである。至極もっともな意見である。戦後すぐに婦女子や老人子どもは罪を許され、塩川近郷の農家などに間借りしていたが、衣服も食べ物も乏しいところに、さらに何の縁もない南部領に移住するということは大変なことである。
町野主水
しかし会津にそのまま居座ることは、新政府に反乱の疑心を抱かせることになる。旧会津藩士らの一番の望みは、再び旧藩主を戴き奉公することにある。そのためにも青天白日の身となって、新政府から疑いを持たれないよう正々堂々と藩を営むことが必要である。 その結果どのような艱難辛苦が待ち受けようとも会津を離れなければならない、と東京組の元家老山川浩(25歳)や、広沢安任(40歳)、永岡久茂(30歳)らは考えていた。
永岡久茂
事実、若松県知事四条隆平は斗南への移住を速やかに実行してもらわねば、鎮撫の自信は持てず職務を免じていただきたい、とまで申し出ていた。
また一方で若松在住の藩士のうちには、移住するなら腹を切るという者もいた。若松から何人かが東京に向い翻意を促したが、意見は通らずむなしく帰るだけで、中には移住案がもっとも、と東京に居残る者もいたくらいであった。埒が明かぬと見た主水は、会津在住案が通らぬ場合は生きて帰らずと、元家老原田対馬とともに決死の覚悟で上京した。そして東京藩邸で主水と永岡久茂が大激論、いずれも主君や国を思い一歩も引かなかった。
主水は山川や広沢の必死の説得も耳に入らない。久茂は尋常の手段では治まりがつかないと、主水に向い「先刻から町野君の主張されるところを聞くに無茶論なり、丸で無茶なり」と言い放った。
主水は「無茶とは何だ」とその言辞を咎めた。久茂は「無茶だから無茶というのだ。この度の新封地、旧南部領三郡、北海道四郡は山川君、広沢君らが実地を調査して将来有望の地と判断し、旧臣らを収容するのに十分と言われるのに、町野君は新封地を実見も調査もしたことが無く、いたずらに斗南地方は見込みが無いと言われるのは丸で無茶である」と鋭く反駁した。
主水は言葉に窮したが、不測の事態が生じることを心配した広沢によって、双方に過失の無いよう一応その場は収められた。 ところが両者の激論は一旦は収まったものの、その夜主水の宿舎で再び両者が衝突、議論ではなく闘争となった。明治とはいえどまだ武士社会であり、侍の習いとして相手から無礼の言葉をかけられたら、武士道においてそのままには済まされない。侍であるから殴り合いなどはしない。刀を抜かなければならない。
幸い斬り合いにはならなかったが、これにより両者は譴責、謹慎を命じられてしまった。ただしこれは私闘ではなく、藩の将来を思っての論争であり、こののち二人は肝胆相照らす仲になったのは言うまでも無い。この激論により 藩論もーつにまとまり、斗南へ向うことになるのであった。
これはこの激論の場面に立ち会った水島純(25歳)が、47年後の大正6年(1917)に東京の会津会において講演した内容である。純は「今日に至るまで、このことは記憶し忘れざること」と語っている。ただし激論の後の闘争については出羽佐太郎、堀悌助の2人に聞いた話と言う。
この年月であるが旧南部領3郡支配と決まったのが明治2年11月24日、北海道4郡 の「支配仰せ付け」が翌3年1月5日であるから、この激論は3年の早い時期と思われる。 従来、新政府から猪苗代か南部かの問いに、どちらを選ぶかの論争とする記述も多い。斯く言う筆者も、以前「猪苗代か南部か云々」と書いたこともあるが、実際は南部行きの決定に対しての論争であったと訂正する。 この論争以来、山川は久茂を深く信頼することになった。論争の4、5日後、山川、広沢らと長州の前原一誠(36歳)、奥平謙輔(29歳)と懇親の宴席が開かれた。席上、山川は「我が藩に永岡久茂という者がおります。本日同行する筈でしたが、藩の者と過激な論争した結果、現在謹慎の身となっております。謹慎が解け次第、ぜひご交際を願いたい」と申し出たのである。その後、前原、奥平と久茂は交誼を結び、才も学もある久茂と意気投合することになる。 しかしこののち明治9年(1876)この3人は政府転覆の企て、「萩の乱」「思案橋事件」 を引き起こし刑場の露と消えるのであった。
久茂は斗南藩ではナンバ12の少参事として力を尽くしたが、間もなく廃藩置県となり藩が瓦解。その後青森県大属として田名部支庁長を命じられたが、旧藩の善後策を図るため辞職して上京、前原らと意気投合。また薩摩の海老原穆らと『評論新聞』、『中外評論』、『江湖評論』など続々発刊し政府攻撃に論陣を張った。これらは政府により全て発行禁止処分となったが、政治論争にかかる日本最初の雑誌となった。また副嶋種臣、板垣退助らとも親交があり、任官を勧められたが応じなかった。
山川浩
それまで会津藩は28万石という全国約260藩中、第19番位の大藩であった。それ が今までの10分の1強の3万石という、戊辰戦争敗戦国の中で一番の減少率とされた。ところで3万石の地は図のように下北方面と、間に南部藩領をはさみ三戸方面と2分割された地であった。とくに下北半島では米がほとんど取れず、実質7000石ともいわれる土地であった。藩士の幽閉の地も2カ所に分割、そして新領地も分割された。これは新政府が会津藩士の団結力を未だ恐れていた証拠であろう。藩庁は最初五戸(現青森県三戸郡五戸町)に置かれたが、間もなく下北の田名部(現青森県むつ市)に移された。この時わずか1歳の藩主容大に代わり実権を握っていたのが権大参事山川浩である。
25歳の若い指導者であった。この浩と広沢安任が斗南移住案を推進したのである。
浩は旧藩時代、大蔵と称し戊辰戦争で家老として活躍した。また幕末慶応2年〈1866) には外国奉行小出大和守の随員として、樺太の国境問題のためロシアへ行き、さらにフランスに渡り、外国の文明に接する経験を有していた。その浩が先祖代々の故郷を捨て、なぜ最北の地斗南を選んだのか。それは彼の地には海があったからと考える。港を開くことで西洋の文物が到来し、貿易によって財政も潤う。京都守護職時代や戊辰戦争の際に、港を持つ西国諸藩との財政力、貿易による武器の差を嫌というほど見せつけられた。会津で米にたよる財政運営では、今後の 経済的発展を望むことは不可能であった。米の作柄は天候に左右され、豊作では米価は安く、凶作では売ることのできる米は少ない。 販売するにも輸送費が大きくかさむし、単にそれを売っても大きな利益は生まれない。しかし下北には海があり港がある。これからの藩の経営に良港は欠かせない条件であった。会津藩では長崎から特産薬用人参の輸出で、莫大な利益をあげていたことも十分承知していた。 新領田名部ではアワビや海鼠が豊富に取れ、これらは高級品の干アワビ、干海鼠として長崎 から輸出されていた。
田名部近くの安渡には古くから港があり、ここを貿易港とすべく、浩は大湊と名を改めさせたのである。また冬季潮の流れの速い津軽海峡を避けるため、太平洋側から鷹架沼などを経由して、陸奥湾まで運河を開盤するという計画も持っていた。実際沼を経由すれば、難なく穏やかな陸奥湾にたどりつくことができる。しかしこの遠大な計画は実現することはなかった。明治四年七月廃藩置県が断行され、侍の心の拠り所であった藩という存在が消滅してしまったからである。旧藩主は東京に移され、斗南藩は斗南県に、そして間もなく青森県に併合されたのである。その後、旧藩士らはそのまま残る者、故郷会津に帰る者、新天地を目指し北海道や東京その他へ向う者と、散り散りになっていくのである。浩の壮大な野望はついに実現することなく、ここに潰えることになってしまった。
えりすぐりの歴史「斗南か猪苗代か」より
2024年春季号 vol.5
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