新選組隊士!! from唐津藩
『 新政府軍 』 「 大村 益次郎 」 と 「 咸宜園 」
幕末、 その天才的軍事能力を発揮し、 長州藩、そして新政府を “官軍” へと導いたといっても過言ではない 長州藩士 「 大村 益次郎 」 が学んだ学び舎で 思い浮かぶところといたったらどこでしょうか? おそらく、大方の方は、大坂にある緒方洪庵の 『 適塾 』 を思い浮かべるのではないでしょうか。 【 大阪市 『 適塾 』 】
きっと、幕末好きの人にとっては 適塾は有名どころすぎるでしょう。 当時、蘭学の道で大家であった緒方洪庵が設立した適塾。 この塾からは大村さんをはじめ、 日本赤十字社の創始者・佐野常民、 福沢諭吉、 大鳥圭介、 橋本左内 などなどそうそうたるメンバーが巣立った蘭学の名門塾ですね。 しかし、 私が今回ご紹介したいのは、 大分県日田市にある 『 咸宜園 』 です。 御存じの方もいらっしゃると思います。 ここで大村さんも学びました。 適塾の門をたたく前のことです。
【 大分県日田市 『 史跡 咸宜園跡 』 「秋風庵」 】 まずは、 咸宜園のご紹介を致しましょう。 咸宜園は 廣瀬 淡窓 という人物が開塾しました。
『 淡窓は天明2(1782)年 日田市に生まれた。淡窓は幼少の頃から学問を好み、6歳の時から父について書道を学び、更に四書の句読を授かった。
12歳のときにつくった詩が天下の詩壇に注目され、のち天下の天下の大儒とされたが、江戸にも京にも出ず日田の山里で「 咸宜園 」 とのちに名をつけた学塾をひらき、門人を教えた。門人は60余州から集まり、その75年の生涯で4千人に及ぶ。
「咸宜」とは、「みなよろし」の意味で、日田は天領であるから、武士だけでなく、どんな身分でも 男女問わず受け入れるという意味で名付けられた。
大村さんは、19歳のときに咸宜園に入りました。 この入門をすすめたのは、 大村さんが16,17歳の時に内弟子にはいった 長州 周防市宮市の開業医で梅田幽斎という人物でした。 幽斎は内科は漢方で、外科は旧式蘭方という医者であります。 やがて幽斎は 「診療や投薬は見よう見まねでまなぶのもいいが、 いい医者になるには医書を読まねばならず、 医者は漢文が分からねば読めない。
まず漢学の先生につくことだ」 とすすめたために大村さんは咸宜園に入門するに至りました。
「師としてあおぐにのには、 天下一流の学匠にかぎる」 と幽斎はいう。 のちに適塾をすすめるのも彼でありました。『 塾の教場は6畳と8畳の2室で、それに上下10畳ずつの2階建寄宿舎がある、寄宿生たちは、めしをたくための薪もとりにゆかねばならない。「こういう生活が生涯の思い出になる」 と、淡窓は門生につねに言い、門生たちの共同生活の光景を詩にした。
道ふを休めよ 他郷苦辛多しと 同袍友あり 自ら相親しむ 、、 大村さんはそういう暮らしをして在塾1年あまりを過ごしました。 課題には詩作が多かったのですが、 大村さんは詩は苦手で、 成績はよくなかったそうです。 そのあと、周防の幽斎の塾にかえり、 ほどなくして大阪へ出ました。
この咸宜園には 淡窓を尋ねて、新選組の近藤さんも愛読していた 『 日本外史 』 の著者 頼 山陽も来ていますし、 蘭学の先覚者であった高野長英も入門しています。
私は、大村さんにどこか惹かれてしまいます。 大村さんの業績よりも、人あたりは悪くとも 強く自分を律した姿にひかれます。 大村さん史跡ネタは他にもいろいろとあるので またご紹介できたらと思います。
今回、参考・引用した資料は、 ・司馬 遼太郎 著 『 花神 上 』 新潮文庫 ・学研 『 図説・幕末志士199 』 ・『 咸宜園 』 で頂いたパンフレット です。
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