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ザ・戊辰研マガジン

2022年03月号 vol.53

競輪場と鶴ヶ城再建

2022年03月06日 10:38 by norippe
2022年03月06日 10:38 by norippe


 太平洋戦争後、日本の社会・経済は大混乱。日本政府は財源確保のために戦前からあった自転車競走に車券を付加し「報償制度併用による自転車競走」を企画した。法制化に向け政党間の調整を経て、連合国軍総司令部GHQに届けた。しかし、GHQは政府を主権者とすることには反対であったが、各地方が行う事には良しとして承認をした。
 昭和23年8月に「自転車競技法」が公布・施行された。この法律は昭和20年8月に終戦を迎え、空襲により被災、荒廃した都市の復興を図るため、また地方財源を確保するための収入源として競輪場の整備などを盛り込んだものである。
 この法施行前の昭和23年、福岡県で国民体育大会が開催されることになっていた。小倉市は競技法案を研究し、いち早く競輪場誘致を働きかけていたのである。小倉市は空襲で被災し、復興費を捻出する必要があった。
 昭和23(1948)年11月、小倉市で第1回競輪のレースが行われ大成功に終わった。これを知った全国の戦災復興都市は、開場に向けて条件整備を図った。以後5年間に開場した競輪場は全国で62か所を数えたのである。

 福島県の平市(現いわき市)は小倉市と同様に炭鉱地域を控えているという都市環境が極似していたことから、関係者は競輪場の施設設置と開催権の確保を計画し、昭和24年末から積極的に誘致運動を展開。昭和25年5月、競輪場設置を市議会に上程して可決を得た。さらに、同年9月には通商産業省の認可を得て、平市の谷川瀬という場所が選ばれた。公共団体の財源を競輪に依存することには反対の声も上がった。競輪=賭博という概念があったのだ。しかし平市の戦災復興事業を成し遂げるには莫大な事業費が必要となったことから、これを容認する声の方が多い状況にあった。
 そして、日本初の競輪場となる小倉競輪場から遅れること2年3か月、平競輪場は昭和26年2月に開場したのである。初年は赤字であったが、翌年度から黒字に転換。補助金が削減された戦災復興事業にあって、競輪場は事業の仕上げを迎えた昭和20年代後半の復興事業を財政面から支えることになったのである。


いわき平競輪場

 昭和41年10月1日にいわき市が誕生したことにより、競輪事業はいわき市の直営事業となった。その後も全国の一流選手を集めたダービーやオールスターも開催し、景気の動向に左右されながらも、売り上げ、入場者数ともに増加の傾向を示したのである。不況に強いギャンブルではあるが、徐々に売上が減少し、ギャンブルは不況に強いという神話は崩れつつあった。

 長期の人気低下が続く中、競輪関係者や開催市は競輪事業の公益還元のPRやイメージアップを図り、事業回復を図ろうと試みた。平成3年4月には、「いわき」の知名度を高めるため、「いわき平競輪場」と改称。平成5年には、大型映像装置の設置など魅力アップを図った。
 その後、いわき平競輪場は施設の全面改修を行い、リニューアルオープン。平成21年3月バックスタンド機能を有する地域開放型施設が完成し、グランドオープンしたのである。

平成23年3月11日、東日本大震災が起きた。その時、このいわき平競輪場は、全国から送られてくる支援物資の集積所となった。競輪場はあふれる程の支援物資で埋まったのである。


東日本大震災時、支援物資集積場となったいわき平競輪場一階エリア

 さて、ここからは会津鶴ヶ城再建と競輪場の話である。
 その会津のシンボルでもあった会津若松城(鶴ヶ城)、戊辰戦争終結後は開城となり、当時の若松県の管理下に置かれることとなった。明治6年、明治政府から「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)」が出され、翌年には天守閣を含むすべての建物が解体または移築された。
 その後、明治23年には松平家に城郭地が払い下げられ、公園化の整備が進み、そして所有権が当時の若松市に移り、昭和5年に国の史跡に指定された。

 鶴ケ城の再建計画は何度か持ち上がった。しかし若松旧城址に天守閣を造る計画は一時立消えとなったが、会津出身在京有力者による希望が強くなり、実現するようにと市当局に通達してきた。若松市でも 具体的に計画を進める事となったが、旧藩時代と同一の天守閣を造り、内部は郷土博物館になる予定で、工費は大体20万円を要する見込みであった。費用は旧藩関係と市その他から寄付募集の予定であったが、この計画は実現されることは無かった。

 昭和23年3月、会津魁新聞社長である横山武が若松市長に初当選した。戦後の混乱期であり、どこも財政難に苦しんでいた。若松市も新教育制度六三制による中学校の新設という問題もあった。四つの中学校を新たに建てる必要に迫られたが、財源を捻出するのは到底不可能であった。

 そこで横山が目をつけたのが競輪であった。この当時、 自転車競技法が成立し、戦争のため荒果てた都市の復興のため作られた議員立法であった。 戦災都市復興のための法律なので、開催出来るのは戦災都市だけである。しかし若松市は戦災には遭っていない。通常なら却下されるところであるが、その法律には但し書き条項があった。各都道府県にーカ所は開催出来るとあったのだ。横山はこれに目をつけ、福島県営会津競輪を考えたのである。とはいえ当然県の承諾が必要であった。横山は建設費は県と市の折半、収益も同様で建設地は市が提供するといった作戦を立てた。以来、担当者の県庁通いが始まったが、まだ法律施行前で県の窓口も決まっていない。そこで国への申請手続き、書類作成は県知事名ですべて若松市が行い、県は知事の判を押すだけ、さらに利益は折半といった条件でなんとか妥結したのである。
 県との取引は成功したが、建設場所という難題が待ち受けていた。競輪の走路はバンクが必要である。平地に建設したのでは莫大な費用がかかり、何のために誘致したか分からなくなってしまう。極力お金をかけずに作らなければならなかった。
 横山は戦前、お城本丸で自転車競走が行われていたことを知っていた。本丸なら真ん中の土を掘下げ、その土を廻りに盛り上げれば安上がり、しかも周囲の石垣が外壁の役目を果す。しかし事はそう簡単ではなかった。まずお城は文部省の史跡である。国の文化財保護委員会の許可なしでは、勝手に動かすことは出来ない。早速、文部省に陳情を行ったがまったくらちが明かない。しかしこれで諦める横山ではなかった。ある人物の名がひらめいたのである。文部省や文化財保護委員会を納得させることの出来る人物。元お城の主の息子、当時参議院議長の松平恒雄であった。恒雄は駐英、駐米大使、宮内大臣等を歴任、秩父宮勢津子妃の父でもある。横山は市の窮状を訴え、将来には天守閣を必ず再建するという約束で恒雄の許しを得たのであった。これでその後の折衝は うまく進み、昭和25年4月に第1回県営会津競輪が始まったのである。


鶴ヶ城址に造られた競輪場

 ただお城を博打場にするなどとんでもないと反対する市民も大勢いた。だが背に腹は代えられない。それでも寺銭は大いにあがり、中学校建設のほか市営住宅、市民会館の建設も出来た。ところが昭和27年2期目の市長選挙で、 横山は僅差で落選してしまった。競輪問題が崇ったのである。しかしその4年後の昭和31年の選挙 で見事復活、以降3期連続当選したのだ。

 そして鶴ケ城再建が公式に発表されたのは、昭和19年の議会においてであった。横山を破った村井八郎市長が「観光都市若松市の象徴として天守閣の復元が必要、早急に具体的計画を樹立し、実現を期すべきである」という建議が議決された。その後同32年、戊辰戦争90年祭において参加者による再建が決議され、同34年市制施行60年祭において、横山はついに天守閣再建を発表、本格的に始動したのは同36年であった。

 同33年3月に本丸跡から、小の田垣の柿畑に移転再開されていた。本丸跡も公園として整備され、天守閣再建の機運は次第に高まっていった。
 ただ市議会では資金の調達方法、入場者数見込み、入場料等を巡って紛糾していた。同39年7月の議会において、横山は再建予算案を提出、長い質疑、休議が繰り返された。賛成、反対は措抗、予断を許さない状況にあった。賛成派は反対派に顎がくたびれるまで反対演説をぶたせ、疲れたのを待って一気に動議を提出という戦法を立てた。その日朝9時から始まった議会は、既に夜の8時を回りまたも休議となった。この時票読みしてみると、どちらともいえない状況にあった。8時38分再開、と同時に賛成派の議員が「質疑打ち切り、討論省略ただちに採決」の動議が出された。賛成派の議長もすかさず「動議は成立、よって採決します。賛成の諸君の起立を求めます」。怒号渦巻く中、事務局長が人数を数え出すと、まだ数え終わる前に議長は「賛成多数、よって本案は可決」とやったから、なお大混乱に陥った。この後議場では、議長不信任案、ついで副議長不信任案が出され、混乱の中で採決に不満を持った15名の議員が退場するという一幕もあった。こうした混乱を経て、昭和40年9月会津の空に91年ぶりに天守閣が蘇ったのである。

 昭和32年に現在の鶴ケ城体育館の場所に移転した競輪場は、昭和38年11月に廃止された。


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