昭和55年12月24日
クリスマス豪雪で仙台から郡山への帰りの高速道路がストップしてしまった。
宮城県と福島県の県境を走っていた私の車は渋滞の列の中、身動きが出来ずにいた。
道路は降り積もる雪が踏み固まり、とてもまともに走れる状態ではなかった。
身動き出来ない状態の中、ただただ時間だけが過ぎていく。
中にはガス欠の車も出て、もう手に負えない状態であった。
仙台宮城インターを出たのが、午後3時ごろ。車は福島の国見あたりでストップし、そこで一夜を過ごした。
ようやく車列が動いたのが朝日が昇り午前7時を回った頃だっただろうか。
そして郡山に帰ったのが午前10時頃。
郡山は豪雪のため、送電線の鉄塔が倒れ停電、水道もストップしていた。
急いで妻が入院している病院へ向かった。
娘が生まれていた。母子とも元気だった。
そんな体験をした私であるが、あれから40年、ふたたび同じ体験するのである。
令和4年1月6日、東京に久々の雪が降った。
そんな日に東京へ行かなければならず、常磐道をひた走った。
いわきは天気がよかったのだが、水戸インターを過ぎた頃から雪が舞い始め、道路の視界も悪くなってきた。
東京に雪が降ることは天気予報を見ていたので知っていたが、東京へ着く前に雪とは先が思いやられる。
首都高に入り、小菅ジャンクションを過ぎ中央環状線に合流したあたりから車がノロノロ運転状態になった。時刻は午後3時半。
そして、江北ジャンクションを板橋方面へ折れ、もうすぐ王子北の降り口だと思った途端に、車の動きが止まった。
まっ、そのうち動くだろうと思っていたが、1時間たっても動く気配がない。止まった場所が悪く、荒川の橋の上だった。
風もあり、積もった雪も圧雪となって固まり、ばりばりの状態であった。
トロトロと少しだけ動いたかと思ったら、また止まった。
右前方に高級車ベンツが横を向いて倒れていた。スリップしたのだろう。
車列は全く動かなくなり、ただ時間が無駄に過ぎるばかりであった。
陽も落ちで暗くなった。
夜、7時くらいだっただろうか。無性に小便がしたくなった。車内でするにも入れ物がない。せめてビニール袋くらいはと思ってダッシュボードを開けたが、袋らしきものはみつからない。しかたがない。恥を忍んで車から降り、積もった雪の上をザクザクと歩き、高速道路の路肩で静かに用を足した。真っ白い雪に色づいた小便のあとが浮かび上がる。
すっきりして車に戻ると、今度は右側車線にいた板橋ナンバーの年配の男性が降りてきて、私と同様、用を足して車に戻った。
まぁ男性は局部を隠して出来るけど、女性はそうはいかないよね。相当な車が見動き出来ないのだから、その中に女性もかなりいたはず。その人達はどうしたのだろうかと考えてしまう。
車載テレビのニュースを気にしながら時間を過ごした。ニュースを見ると、都内では雪による交通事故が600件ほど発生しているらしく、救急車のサイレンが鳴り響いていた。
ノーマルタイヤの車が多く、スリップで立ち往生している状態が各地であるらしい。
いくら雪が降らない東京でも、いざと言う時のために冬用タイヤの備えは必要だ。
私の住んでいるいわき市も、まったくと言っていいほど雪が降らない、なので、冬用タイヤをはいていない車が目立つ。そしてたまたま雪が降ると、街はパニックに陥り、車を道路に放置していく馬鹿なドライバーが現れ、さらなる交通マヒを引き起こすのだ。
日が変わり、2時を過ぎた頃だろうか、車列の後方の黄色燈の明かりが見えて来た。
車列の横を首都高の係員のような人が、前方へ歩いて行った。
しばらくたって戻って来たので、窓を開け、状況を聞いてみた。
私が降りるはずの王子北インターで乗用車がスリップ事故を起こし、レッカー車は来たものの身動きが取れずにいるようだ。
王子北インターはカーブと長い坂があり、雪が無くても危ない道路だとは思っていたが、案の定、事故は起きていたのだ。
そうこうしているうち、今度はガソリンを入れた携行缶を持った係の人が前方へ歩いていった。これだけ長い時間止められればガス欠車が出るのもあたりまえ。
私の車はガソリンを満タンに入れて来たので、ガス欠の心配はなかった。
すると、後方で何やら一台一台に話しかけて何かを配っている係員の姿が見えた。
そしてようやく私の車に順番がまわり、窓を開けた。
「体の具合は大丈夫ですか?」と話しかけ、ペットボトルの水、非常時用の簡易トイレの袋、それにカロリーメイト等が入ったビニール袋が渡された。
いやぁ、係の方もこの寒いなか大変だ。感謝を込めて「ありがとう」と声をかけて頂いた。
午前6時半ごろ、後ろの車が次々にバックをして行く。係員に聞いたところ、このまま前に進むのは不可能と判断し、中央環状線までバックで戻り本線に合流。本線のインターから降りてもらうという流れであった。
雪で滑る高速道路をバックで進むのはちょっと怖い感じだ。ましてカーブのある高架橋の坂道を下るのである。どうにかこうにか本線に辿り着き、誘導員の合図に従い本線の流れに合流。久々に車の速度を感じた。
とりあえず最初に現れたインターで降りる事にした。
一般道に出てまず腹ごしらえ。交差点の角に「牛丼」の看板があった。
朝から牛肉もないだろうが、とにかく空腹を満たさなければならない。
腹が膨れたところで、目的地まで急がなければならない。
道路は雪でどの車もノロノロ運転。
カーナビに目的地を設定し、画面を眺めながらようやく到着した。
荷物をおろし、休む間もなく帰らねばならない。
通常はすぐに首都高に乗るのだが、どこも首都高の入口は閉鎖されていて、一般道で常磐道の三郷インターまでいかなければならない。
一般道はどこも混雑して、三郷まで辿り着くのは至難の業だ。
そんな中、高速バスが首都高を走っているという情報が入った。
東京駅からいわきまでの高速バスが走っていると言うのだ。
首都高の入口はどこも閉鎖しているはずなのに、これはどうした事か。
とにかく東京駅まで行ってみようと思った。
そして、いわき行の高速バスを見つけ、その後をついて行く事にした。
通常、バスは東京駅ターミナルを出ると、近くにある宝町料金所から首都高に入るわけだが、宝町は閉鎖なので、そのまま通り過ごし、八丁堀交差点を左折。そして茅場町交差点を過ぎ神田川を越えた先の交差点を右折。 少し狭い道路を走った先に、箱崎料金所があった。 首都高の料金所はどこも閉鎖かと思っていたが、この箱崎と霞ヶ関だけが開いていたようだ。 箱崎料金所は少し混んでいたが、すんなり入れた。 これで無事に帰れるかと思ったが、この先何があるか分からないので、このままバスの後ろをついて行くことにした。 隅田川沿いに車は走り、両国ジャンクションに来たところで、常磐道へ行く道が閉鎖されていた。はて?しかしバスは右車線の小松川線へと進んだ。おぃおぃ!これでは千葉に行っちまうじゃないか。 でもバスはいわき行き。間違いなくいわきに行くのだろうから、このままついて行こう。まるで小判鮫のごとく、私の車はバスの後ろにピッタリとついて走った。 錦糸町、亀戸、小松川を通過。 ますます千葉に近づいた。そして江戸川を越えた先に京葉ジャンクションがあった。もうここは千葉県。 看板には三郷へ行く分岐の矢印があった。なるほど、こういう回り道があったんだとつくづく感心した。 矢印のとおり常磐道の入り口がある三郷方面へハンドルを左に切った。この道路は東京外環自動車道と言うらしい。って事はまた料金が取られるのかい?と思った矢先、案の定、料金所が現れた。 料金を払って車を走らせたが、先行くバスは遥か彼方。道路も混み始めた。 市川、松戸を過ぎたが、この道路は素晴らしく綺麗な道路で、風避けの為の設備も施されていた。周りの住宅の為の防音効果の意味もあるのだろう。
ようやく三郷の文字が現れ、そして馴染みある三郷料金所に到着したのである。 車は常磐道に入り、生き返ったかのように軽快に走った。 利根川を渡ってすぐのところの守谷パーキングで昼飯を食べ、少し休憩をすることにした。
昼飯は五目ラーメン。美味かった。
とりあえず昼飯を食べたところで会社に電話。「すみません、少し遅刻します」
眠い目をこすりこすり車を走らせた。
会社には3時間の遅刻であった。
2024年春季号 vol.5
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