前田雅樂については、「十津川人物史」にのちに改められる「前田正之」として詳細に 紹介されていますが、郷の勤王活動の発端となった例の護良親王歌碑建立運動の折、 最年少の十五歳で加わった早熟の活動家で、才気煥発、弁舌にも秀れていたので、主税 も信頼して、京の屯所では対外折衝の一切を任せていたという。
雅樂はその夜、池穴村から二十キロの山路を駆けて上野地に赴き、中山忠光と会談。 夜四ツ(十時)を過ぎていたといいます。 会談の内容は記録に残っていないそうですが、会談後にみせた忠光の異様な行動から 察すると、忠光は雅樂の話に、手酷い衝撃と絶望感を抱いたようです。 動揺した忠光は、前田雅樂が辞去するとすぐ、旗本のみを自室に呼び前田との会談内容 を打ち明けて善後策を協議しました。
この時のことを、本陣にいた記録方兼参謀の伴林光平の手記「南山踏雲録」によると、 呼び入れられたのは、京都の方広寺で決起して以来、ずっと忠光に付き従ってきた生え 抜きの隊士ばかり十四人だった。いわば忠光の親衛隊だけで、深夜ひそひそ密議をこら して、他の者は一切、立ち入りを許されなかったという。
つい数日前、水郡善之祐ら河内勢が「親衛隊ばかりかわいがり外様に冷たい」と、忠光 を非難して去って行ったばかりだっただけに、また、差別された外様の隊士たちは、 不快感をあらわにし、険悪な空気がみなぎったと「南山踏雲録」は伝えています。
失態に気づいた忠光は、あわてて本陣にた全隊士を集め、前夜からの成り行きを説明、 十津川籠城が不可能になったので、京から一緒に来た十四人の者は一心同体だが、他の 者は各自思惑通りに行動してよい。要するに天誅組の解散を言い渡したのでした。 しかし、この宣言はいささか早すぎました! というのは、そのころ、吉村寅太郎の殿部隊は、まだ小代村(こだい)に居て、追討の 藤堂勢と戦いながら上野地村に退きつつあったのです。
解散するならば、この部隊が合流するのを待ってからしなければならないのに、忠光は それを無視してやってしまったのです。それほど彼は平常心を失っていたのでしょう。 とにかく、十津川勢はこの宣言により、続々と隊を去りました。
正午過ぎ、前田雅樂が 前夜の約束履行状況を見届けに来た時には、野崎主計や深瀬繁理、前木鏡之進ら幹部 数人が、心情的に去るのはしのびない、と居残っていたのみでした。
ただ、天誅組の三総裁の一人、藤本鉄石は本陣を預かる者として、黙視できなく、前田 に再考を強く求めています。
「主将忠光の解散宣言は隊士の総意ではない。吉村寅太郎はじめ殿部隊は何も知らない し、私自身も素直に納得するものでない。 十津川郷士の離脱は止むを得ないとしても、郷から退去する約束には応じ難い。 十津川を脱出して活路を開きたいのはやまやまだが、追討軍の包囲も厳重で、戦況次第 ではやむなく、ここに立て籠らねばならぬこともある。
その辺をどうかご理解願いたい」と鉄石は言うのでした。
「天誅組十津川退去」に続く。
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