青天を衝け26・27回 栄一、駿府へ
フランスから帰国し、江戸で残務処理を済ませて、血洗島村に戻った英一です。村の人々に歓迎されて、故郷とは有り難いものだと、しみじみと述懐していました。平九郎の死は尾高家や渋沢家の人々にとって、辛い出来事でしょうが、生き残った者は前に進まないといけません。今回の大河ドラマは生き残った者たちの未来へ向けての歩みを見せてくれます。
箱館では、箱館共和国軍(旧徳川軍)の抵抗が続いています。町田啓太さんのすっきりした洋装の土方役、よくお似合いです。高龍寺を箱館病院にした高松凌雲先生、けが人に敵・味方の区別はないと、新政府側の負傷兵の手当てをしていました。このエピソードは有名で、日本の赤十字運動の魁です。
故郷に戻って前を向き始めた英一、慶喜のもとへ弟昭武の書状を届けるために、駿府(静岡市)に向かいました。英一たちがヨーロッパに滞在していた1年半で、慶喜や幕臣たちの境遇は激変しました。駿府で慶喜の蟄居先、宝台院に呼ばれた英一ですが、今更過ぎたことをとやかく申しても、仕方がないと英一に告げる慶喜です。英一がパリでの昭武の様子を語ると、憔悴した様子の慶喜も、英一の珍しい洋行話に思わず笑みをこぼしていました。慶喜にしてみれば、楽しいことなんて、鳥羽伏見の戦い以降、無かったことでしょう。英一のフランスでの尽力に、「礼を申す」と慶喜。慶喜と英一の交流は明治以降、慶喜が亡くなるまで続きます。明治中頃、慶喜の復権のために、今度は功成り名を遂げた英一が励みました。
駿府藩が新政府により徳川家に与えられ、慶喜はじめ、多数の幕臣が駿府に移り住んできました。静岡市の郷土史家によると、江戸から10万人が流入してきて、大騒動になったとか。一番困ったのは、布団が足りないとのことでした。 また、江戸から杉浦愛蔵のような洋行帰りの先生など、立派な先生が大挙してやってきて、寺子屋の先生になりました。今なら、さしずめ東大の先生が小学校の教師になったようなものだとのことで、突然、駿府の教育水準が大幅にアップしました。子供たちが江戸から来た先生に付いていけたかは・・? 水戸へ行くという英一に、勘定方に取り立てるから、駿府に残るようにとの藩命が発せられました。水戸も維新前後の内情はすったもんだで、まとまらず、尊王攘夷の生みの親である水戸ですが、明治政府では不遇でした。
駿府藩に出仕する気はないという英一ですが、太政官札の内実を聞いた途端に、経済の話となれば、俄然、目の色が変わりました。筆者には、そのからくりはさっぱり分かりませんが、英一にはよくわかるのでしょう。駿府での窮状を見かねて、力を合わせて西洋風の会社を作り、藩内で金を回し、藩全体を潤す仕組みを始めました。
太政官札を正金に変えるために東京に向かった英一と五代才助が遭遇しました。五代はえらく肥料に詳しい英一に声をかけていました。まだまだ少ない散切り頭に、目を付けたのかもしれません。攘夷志士に気を付けろと告げる五代です。薩摩の五代と名乗った散切り頭の侍に、パリ万博を舞台に幕府の借款の邪魔をした張本人だと気づいた英一ですが、さて、明治4年以降、この二人の関係性はどうなるのでしょうね。五代のもとには英一から来た手紙が40通ほどあるといいますから、そう、仲は悪くはなかったと思います。 英一の始めたコンパニ―も軌道に乗り、駿府藩の懐を潤すようになりました。いずれ、日本中で、英一が始めた合本主義(資本主義)を真似ることになります。
箱館の戦いはいよいよ終盤になってきました。明治2年になると、箱館共和国軍の敗色が濃くなり、高松先生、箱館病院で奮闘していますが、医療は崩壊状態です。
明治2年5月、新政府軍の総攻撃が始まり、土方は死ぬ気ですが、成一郎には「お前は生きろ」と告げました。新選組の副長が生き残って降伏しても、処刑されるでしょうしねぇ。もし、本気で生き残る気なら、亡命するしかないかもしれません。本ドラマでは、静かな土方の死でした。今年は土方の当たり年で、本ドラマの町田啓太さん、「土方のスマホ」の窪田正孝さん(突然の登場で驚きました)、「燃えよ剣」の岡田准一さん、「歴史探偵」の方、来年正月時代劇の向井理さんと、幕末好きにはありがたい年になりました。10年ほど、映像の土方を見られないこともありましたが。
ストーンウォーン号(甲鉄艦)を新政府のために買ったのは、大隈重信だったのですね。この艦はもともと、幕府がアメリカに注文したものです。土方らが宮古湾でアポルタージュしようとしたのはこの艦です。大隈や五代、伊藤博文らのもとにパリや駿府での英一の活躍のうわさが届きました。英一に興味を示し始めた五代です。いずれ、この二人の人生が交錯することでしょう。
鳥羽伏見の戦いの現場の続きです。現京都府に当たる山城国と、現大阪府の北東部、河内国との境界にあたり、河内国側の樟葉(くずは・現枚方市)に造営されたのが樟葉台場でした。施工主松平容保、設計勝海舟です。
嘉永7年(1854)9月に摂海(大坂湾)天保山沖にロシア船ディアナ号が来航したことから、大坂・京都は大騒動になりました。摂海問題と言いますが、吉田松陰はじめ、坂本龍馬ら幕末の志士たちは京に近い大坂湾への外国船の侵入を問題視しました。現在の阪神間の海岸線、淡路島、和歌山、堺などの沿岸部に続々と台場が造られ、大坂湾から京都へ向かう淀川の口に当たる天保山は、五稜郭のような陵墓式の台場に姿を変えました。
朝廷は異国船の侵入に恐怖し、幕府により一層の警備を要請したことから、京都守護職に就任した容保は、大坂―京都間を結ぶ淀川の中間部の両岸に、台場を設置することにしました。ただ後に、淀川は上流にあたる枚方~伏見間は川底が浅く、大型の蒸気船は川を遡れないことが判明し、淀川両岸に台場を設置する必要は無くなりましたが、容保は形を変えて、台場造営を続けました。変更した点は、淀川の東側、樟葉台場の方は淀川を往来する船への警戒というよりは、沿岸部の京街道の道筋を変えて、台場の中へ引き込み、街道を往来する人々への監視を強化しました。対外対策というよりは、西国の反幕勢力への警戒を強める対内対策として台場が使用されました。
淀川の西側、高槻藩には梶原台場が築かれました。こちらは淀川からかなり内陸に入ったところで、西国街道を引き込む形で建造されました。
慶応4年1月5日、勅使が梶原台場にやってきて、官軍側につくように強く要請しました。台場を警固していた津藩はこれを承諾し、翌日、川岸の高浜に砲台を引っ張ってきて、対岸の樟葉の方へ向けて、砲弾を撃ち始めました。この時期、樟葉台場を警固していたのは若狭小浜藩の方で、これに応戦しました。これ以後、関西での官軍側と旧幕府側の大きな戦いは無くなり、戦場は東へと移っていきました。樟葉台場の方では、砲弾を撃ち尽くした後、小浜藩兵たちも大坂方面へ引き上げました。
明治以降、樟葉台場は取り壊され、土塁は京阪電鉄の敷設に使われ、台場跡は田畑に戻りました。近年、台場の研究が進み、台場の絵図が発見されたこともあり、樟葉台場の跡地は整備されて公園になりました。南側にあった陵墓式の形態が再現され、台場跡の形状がよくわかるようになりました。
虎口跡や番所跡、火薬庫跡などに銘板が設置され、当時を偲ぶことができるようになりました。
この石碑は昭和初期に建てられ、京都在住の方が、山城国橋本村から見た台場跡ということで、橋本砲台跡となっています。京阪電鉄橋本駅から南西へ徒歩15分ほどです。 #台場#駿府#京都
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