慶応四年(1868年)8月22日、会津若松城へ迫る西軍は、十六橋・ 戸ノ口原にて戦闘が繰り広げられました。怒涛の勢いで十六橋に殺到した西軍。この橋は、戦略上非常に重要なポイントになっており、ここを抜かれれば会津若松の城下は無防備な状態となります。会津藩と旧幕府軍は急いで橋の破壊を開始しましたが、石橋だった為に容易には破壊出来ませんでした。目前まで攻め込んだ西軍に、短時間で橋を奪われてしまいました。その頃、会津藩には母成峠が破られたという知らせが入り、予備軍だった白虎隊士二番隊も集合を命じられ、いざ出陣となりました。会津藩主・松平容保のお供として滝沢本陣へ向かう途中、戸ノ口原方面から応援を求められ、白虎隊士二番隊は戸ノ口原に向かうことになりました。戸ノ口原の戦い周辺には電柱などもなく、当時とほぼ変わりない風景が広がっています。白虎隊も加えた旧幕府軍は、進入してきた西軍と激戦を繰り広げました。しかし、西軍が次々と戦力を増強する中、多くの兵が死傷した会津藩と旧幕府軍それに白虎隊は命からがら次々と退却しました。
【戸ノ口原の白虎隊奮戦の地の記念塔】
【戸ノ口原の戊辰戦争九十八士の供養塔】
【戸ノ口原古戦場跡の看板】
【白虎隊戦闘の地の看板】
【白虎隊が露営した͡菰土山】
【戊辰の役殉難会津藩二十二士の墓の看板】
【新四郎堀の戦い跡】
【新事実!】
昨年、BS-TBSで放送された「諸説あり」で新事実が紹介されました。この「戸ノ口原の戦い」で、白虎隊6名が戦死しました。飯盛山の「白虎隊十九士の墓」として祀られている内の6名です。白虎隊が露営した菰土山と戸ノ口原の間にある「姥山」に葬られております。この事実はほとんど知られていないため、この6名のお墓に参拝する人もいないそうです。
【姥山の白虎隊士6名の墓】
【新事実!】
そしてそして、「諸説あり」で紹介されたもう一つの衝撃的な新事実が、飯盛山で白虎隊士が自刃したのは6名だったことです。白虎隊は、戸ノ口原の戦いで身も心も疲れ果てた状態で、本体とはぐれちりぢりになりながら、白虎隊14名が戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山に辿り着きました。ここでも戦いとなり、飯盛山の自刃したといわれる場所に辿り着いたのは7名。リーダー格であった篠田儀三郎をはじめこの7名が自刃。その中で、ただ一人の飯沼定吉が蘇生し、白虎隊の真相を後世に伝えられました。つまり、飯盛山で自刃したのは6名だったのが真実です。
【強清水にある白虎隊戦闘の地看板】
【強清水の湧き水】
「強清水(こわしみず)」といえば、会津では湧き水が有名で、この近くには『会津三大茶屋』のひとつ「まんじゅうの天ぷら」や「身欠きにしんの天ぷら」が食べられる茶屋があります。
https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/mikaku/mikaku_cyaya.htm
『会津三大茶屋』とは、「強清水の天ぷら」「奴郎ケ前の田楽(お秀茶屋)」「一ノ堰の棒たら」です。ちなみに、私は全て制覇しました。どれも美味です。
戸ノ口原の戦いの古戦場跡地を巡って感じたことは、見るべきところがたくさんありながら、私のような観光客は皆無であり、会津藩、白虎隊、旧幕府軍で亡くなった方々の深い哀しみを感じることができました。「母成峠の戦い」の跡地を見て、その足で、「戸ノ口原の戦い」跡地を巡りましたが、150年前の戦いにタイムスリップする感覚でした。
【記者 鹿目 哲生】
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