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ザ・戊辰研マガジン

2019年04月号 vol.18

村上殿の日々徒然

2019年04月02日 08:24 by murakamidono
2019年04月02日 08:24 by murakamidono

 2019年4月1日に、新元号が発表された。「令和」である。「人との和を保ち、歩まれんことを命ず」のように解釈している。

 先日は畑で、昔、蒸気機関車SLの整備工のような方と会い、SLが写っている古い写真をお借りした。終ったら、「畑の肥料入れの箱のふたを開け、その上においておくれ」と言われた。私は「人との和を保ち、その人の人生航路をまとめている。今年度は、故郷で、桶作り職人と漆塗り職人と令和し、見事な桶を作りたい。が、令和元年の思い。

 I 生家と親族の歴史ロマン

 故郷の歴史の解明は難しい。話の内容によっては、正確に書くこともできない。 私の生家の歴史にロマンを感じる。 生家の横後ろに観音様がある。この北に「ざいもん」がある。「ざいもん」の分家が「分家ざいもん」である。 「分家ざいもん」に、幕末ころ女の子が生まれた。この方が私の祖母である。書 きにくいことであるが、この「分家ざいもん」は容姿端麗の巻きである。私はこ れにあやかりたいが、男性には適応せず、女性だけらしい。またいとこやその娘、 孫を見たが、そのように思う。私の姪もそのとおりで、現代版かぐや姫と思われ る。 女性が結婚するときは、相手の男性が「その女性」に申しこむ。ところが「かぐ や姫」の場合は違う。相手の男性が姫の父親に申しこむ。「あなたの娘と結婚さ せてください」という具合に。 私の祖母は長男と女の子を産んだ。長男が私の父である。女の子は成人して、 インテリと結婚した。裁判所勤務の男性で、書類が残されているが、達筆である。 大正期の話である。 「分家ざいもん」の分家に「女性」が生まれた。この方は本庄繁長公の家臣の 末裔と結ばれた。川中島の合戦を頼山陽が「べんせいしゅくしゅく 夜 川を渡 る・・・」と詠んだが、この家臣の戦術である。

II  生家と親族の歴史ロマン

 農村では、文書で、出来事を正確に後世に伝える風習がないので、残された物 品、口承情報で解明するのでなかなか難しい。 祖母の夫の父が村上藩士の息子である。名前が、その地域では想像もつかない。 文久2年に29歳なので、家老鳥居三十郎とほぼ同い年である。三十郎は29歳で切 腹。「祖母の夫の父の父」は北越戦争で命を落とした可能性がある。とにかく、 我が家に藩士の三種の神器が残されており、その一つが「村上藩主が子供の時読 んだ絵本」である。村上藩士会で聞いたが、その種の本は誰も持っていないとの こと。こうなると、「私自身が村上藩主の血縁末裔ではないか」と想像すること もある。 不思議な話であるが、故郷の大場一族と私の母は血縁親族にある。村上藩医の 末裔が稲葉修である。稲葉修の生家あたりに村上藩の家老たちが住んでいた。

 私 の母の血縁にあたる大場一族の女性がその辺に嫁いだ。私の母は稲葉家に住んだ こともある。この「大場一族」をたどると、明治学院大学学長になられた方がい る。英語の先生である。この血縁解明はまだ、完全でない。これからだ。 大場一族の原点は戦国時代に三河の方から来られた武将である。この方が村の 子供に読み書きを教えた。「何故、三河の武将が来たのか」と思う。推定である が、当時、故郷に日本最大の金山があった。豊臣秀吉管轄であるが、「これを諜 報する武将として、家康公が派遣したのではないか」が推測する。天正大判など はこの金山の金を使用したが、日本人は知らない。「なぜ知らないか」であるが、 「本当に価値あるものは隠す」のが常識。金山は「隠し金山」である。 私の母が「一富士二鷹三なすびには4番まである」と言っており、4番が分かる と家康公の人生訓が明確にわかる。私はこの解明に50年かかかった。この三河 武将の最期がすさまじい。家康公の最期と同期している。徳川家の「村上を重宝 する心」は強い。東京の上野山を含め、新宿から一帯は村上藩主の土地であった。 私の生家のある集落は「徳川家直属の地」であり、他所からの藩士は入れない。

III 生家と親族の歴史ロマン

 幕末のころ、私の母の生家に独身娘がおり、時折、「ざえもん」の手伝いをし ていた。性格が非常にいい娘で、「ざえもん」の当主が気に入り、自分の屋敷の端 (南側)に家を建ててくれた。その南側が道で、その南側に観音様がある。当主 は家だけでなく、お婿さんまで見つけてくれた。上記に「性格が非常にいい」と か書いたのは、信頼できる現在の村人が言うのである。私の意見ではない。家を 建てる場合、井戸が不可欠だ。明治に入り、その家は空き家になった。 私の母の生家の近くの人が田んぼ仕事をしていた。その脇は道である。この人 の父は「ざえもん」から婿入りした人である。その道を、あるお父さんが子供娘 をつれて歩いていた。そのお父さんは、相当の「のみすけ」だった。「飲んべえ」 である。 「どうしたの」と田んぼ仕事の人が聞いた。「うちは 貧乏で この娘を養うことができないので、隣村のお寺に預けようと思っている」とのこと。 「ほー。それなら、その娘を私の家にくださいよ」 ということで、その娘は養女になり成長した。明治34年、その娘に「女の子」が生まれた。この「女の子」が、その後、成長して、 「ざえもん」の養女になった。「行ったり来たり」である。故郷では「生みの親より育ての親」という概念が強い。 上述の井戸は戦後まであった。私も見たことがある。ある夜、「ざえもん」へ遊 びに行った人が、帰り、その井戸に落ちたらしい。このようなこともあり、その 後、井戸を埋めた。 なお「ざえもん」は私の生家の本家の本家である。

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