「どげんすっとか」
ヨーロッパの工業化、都市化を見てきた洋行帰りの村田新八の言う「ヨーロッパの町は工場が多くあり、繁栄しているが、その町の片隅で鼠のように暮らしている多くの人々がいる。」というのは全くその通りで、この後、富国強兵策を推し進め、工業化が進む日本の大都市にも似たような風景が繰り広げられることになります。
大阪市の人口は幕末期40万でしたが、明治初期の経済危機で落ち込むものの(「あさが来た」の再放送が始まりましたが、この当時の様子がドラマに登場します)、商業の町から工業の町へと変わり、明治後期には80万となり、大正期から昭和初期、爆発的に増え、昭和15年には325万まで膨れ上がりました。
地方の農村の次・三男たちが仕事を求めて、都市にやってくることになるわけですが、彼らの多くの生活は劣悪なものであったことは確かです。江戸期は簡単に農村から町へ出てはこれませんでしたが、明治期になると自由に移動できるようになり、資本主義の発展で職を求めて、都市に人々が集まってくるようになりました。
ドラマの中で、神風連の乱が鎮圧されたと出てきました。維新後、いろいろな改革策が出てきましたが、彼ら士族たちが一番怒ったのは廃刀令の発布だったようです。負け組の旧東軍側は負けたのだから仕方がないと我慢したのでしょうが、勝ち組の旧西軍側としては自分たちの踏ん張りで戊辰戦争に勝利したのに、自分たちの生活は一向に良くならず、刀までさせないのかと、明治初期、主に西日本方面で士族たちの暴発が続きました。
それを見越していたのが大村益次郎で、明治2年に暗殺されてしまいますが、大阪城に鎮台を置いて軍の拠点にすることを主張していました。大村の主張通り、大阪城は陸軍の拠点となり、西南戦争時には政府軍の基地となりました。
明治10年、鉄道建設は進んでいますが、まだまだ兵の輸送には日数がかかりました。物語の中に、電信が登場してきました。こちらは早かったですね。戦争はもちろん、情報を素早くつかんだ方が勝ちです。政府としても士族たちの不穏な動きの中、電信の敷設を急いだことでしょう。文明開化の成果です。
鹿児島から西郷がついに出立する、なのですが、今一つその心の内が分からず・・です。東京に訴えるだけなら、さっさと船で横浜へ行けばいいわけですし。電信を逆に鹿児島から東京へ向けて使うという手もあります。彼ら私学校の中に、立たざるを得ない何かがあったのでしょう。
大久保は意外と子煩悩で、屋敷では子どもたちとよく遊んでいたとか。大久保の天井の高い洋風の屋敷が登場しました。同時期の西郷従道の屋敷が愛知県の明治村に移築されて、現存します。 明治10年築の洋風の屋敷です。
洋風の屋敷なのは、当時、外国人客を接待する施設がなく、政府の要人たちの家で接待するためだったそうです。 食堂です。
従道の年表が掲示されていました。この中に、従道が文久2年の寺田屋事件現場に居たことが書かれていて、あの凄惨な事件から16年経つと、この屋敷の主になるのかと筆者には感慨深いものがありました。維新ですねぇ。 こちらは同じく明治村に移築された大阪の貿易商、芝川家の別宅です。
筆者は、こちらに展示されていた明治初期の長者番付表に引き寄せられました。立派な建物より、関心はこちらです。 長者番付表の西の大関は岩崎弥太郎、関脇が五代友厚。やはり、大久保、西郷従道、五代らは鹿児島本国からは恨まれたでしょうねぇ。ただ、大久保はともかく、従道は3男で友厚は次男ということもあり、鹿児島へ帰っても、継ぐ家はないわけでして、東京や大阪でがんばるのもいたしかたのないところです。
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