会津鶴ヶ城下に16カ所設けられた郭門のうちのひとつが甲賀町口郭門。この石垣は、現存する唯一の郭門で、史跡若松城跡として国の指定を受けております。当時は、ここを境に郭門の内側が侍の住む町郭内で、外側が町人の住む町でした。特に、甲賀町口郭門は、城への正門にあたる大手門として高石垣がつくられ、他の郭門よりも厳重な構えになっていました。
【甲賀町口郭門】
戊辰戦争では、この甲賀町口郭門で激しい戦いが繰り広げられました。慶応4年(1868年)8月21日に母成峠での敗戦で藩境が破られると、西軍は十六橋を突破します。戸ノ口原の戦いも制し、23日の早朝には滝沢峠を通り、一気に若松城下へと攻めこみました。前日、滝沢本陣で指揮を取り、白虎隊を送り出していた容保は、城へ戻る途中、甲賀町口郭門にとどまり、郭門守備の藩兵を励ましますが、西軍の勢いが強く、やむなく退却、入城することとなります。
城下に西軍が入ると、会津藩はすべての郭門を閉じて、守備隊を配置し応戦します。この時、会津藩は国境の警備に力を入れていて、城にはわずかな兵が残っているだけでした。城の北側にある甲賀町口郭門は、城の正門への道が続いていたため、城の北東、滝沢峠を越えてきた西軍は、真っ先に進みました。これを防ごうと、家老・田中土佐率いる会津藩守備隊は必死に応戦しますが、郭内への進入を許してしまいました。指揮にあたった田中土佐と神保内蔵助はこの責任を取って自刃します。
郭内に進入した西軍は城を目指し追手門に迫りますが、城内からの攻撃を受けひとまず退却。会津藩も必死の守りで敵の城内への侵入を防ぎました。この日から約1カ月に渡る籠城戦が始まりました。
【甲賀町口の戦い】
明治元年(1868年)八月二十三日朝の若松城下甲賀町口の戦いを描いた歴史画。
【西郷頼母邸跡と会津武家屋敷】
西郷頼母は、いうまでもありません会津藩の家老です。
西郷家は、会津藩にあって代々家老職を務める家柄で、その長男として生まれた近悳は文久二年(1862)三十三歳で家老に任じられた。その年の藩主容保の京都守護職拝命にあたっては、時局の大勢を予見し、「薪を負うて火を救うにひとし」と再三にわたり反対し、職を解かれる。慶応四年(1868)一月、時局の急迫とともに家老に復帰、白河口総督として奮戦するが敗れて帰藩、和議恭順を主張し再び退けられる。鶴ヶ城籠城戦に入っても、頼母の強行な和議恭順説は交戦派から軟弱論として激しい反発を受け、頼母は長男吉十郎とともに城を去り、米沢、仙台、を経て榎本武揚の艦隊に合流、函館で終戦を迎える。維新後は各地の神社の神官を務め、その一時期、日光東照宮の宮司であった旧主君・容保と運命的な再会を果たす。晩年は故郷若松に戻り、城に近い「十軒長屋」と呼ばれる陋屋に居住し、そこで没する。 享年七十四。
【西郷頼母邸跡の石碑】
西郷頼母邸跡は、鶴ヶ城正面の追手町にあります。西郷家は重臣(藩祖以来)で戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳(ちかのり)でした。
そして、西郷頼母邸を復元したのが「会津武家屋敷」。2300坪及ぶ会津藩家老西郷頼母邸はけやき・ひのき・杉材を使用した和様建築の豪華壮大な造りとなっており、表門に足を踏み入れると、そこからもうタイムスリップ、会津武士の生活が偲ばれます。
【会津武家屋敷】
家老西郷頼母については、賛否両論ありますが、私個人的には、西郷頼母は一貫して間違ったことは言っておらず、大所高所から会津藩主松平容保公へものが言える素晴らしい家老だったと評価しております。
【記者 鹿目 哲生】
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