新年の第一作は鳴海風さんの『鬼女』を取り上げました。 昨年秋に刊行されました鳴海さん渾身の一冊です。 早川書房というあまり歴史時代小説を刊行していない版元さんから上梓されました。
会津戊辰戦争を題材とし、会津という土地の特殊性がいかんなく発揮された作品と なっています。 是非、多くの皆様が手に取ってくださることを期待しております。
書名『鬼女』 著者 鳴海 風 発売 早川書房 発行日 2022年9月25日 定価 本体2900円(税別) 大岡昇平に「母成(ぼなり)峠(とおげ)の思い出」という戊辰戦争の本質を突いた短いが味わい深いエッセイ(『太陽』昭和52年6月号所収)がある。
「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。北越で河井継之助が長州に一泡吹かせたけれど、結局そこまでであった。多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」 “朝敵”とされた会津藩主松平(まつだいら)容(かた)保(もり)は、国許に帰って謹慎し、謝罪を申し出たにも拘らず、薩長政権はそれを無視して、容保の斬首、会津若松の開城、領地没収の三点を要求して譲らず、会津藩を徹底抗戦の途へと追い込む。東北諸藩による列藩同盟は仙台・米沢両藩の主導で、当初、会津藩救済を目的として結成された。しかし、白河口の戦いに敗れてからは奥羽越列藩同盟は崩壊したも同然の状態となり「母成峠」を迎えるのである。 本書の主人公というべきは作家が造形した会津藩士木本(きもと)新兵衛(しんべえ)の妻・利代(りよ)で、
物語のスタートは文久2年(1862) 3月半ばの会津若松である。その2年前の万延元年(1860)には江戸で「桜田門外の変」が起きている。 その後の幕末維新史を知る後世の我々から見れば、その時すでに尋常一様ではない空気がすでに日本全土を覆い尽くしていると思いがちだが、本書に描き出される会津は幕末の風雲など無縁とばかりにのびやかで、初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)の文武にわたる厳しい教えを愚直に守る会津藩独特の風習などが丹念に記述されている。また、作者は蘆名氏、伊達氏、上杉氏、蒲生氏、保科氏らが統治した戦国期の会津の変遷、会津の尋常ならざる歴史への奥行きの深さをも記している。あたかも幕末の会津の悲劇は戦国の会津に起因するかのごとくに。
さて、本書に立ち戻る。利代(32歳)には一人息子で木本家の跡取り息子の駿(しゅん)(10歳)がある。利代の務めは会津藩の藩校日(にっ)新館(しんかん)入学を目前に控える駿を、強靭な身体を持ち文武両道にすぐる夫新兵衛同様の立派な会津武士に育てることである。姑の多江(66歳)は木本家が槍一筋でご奉公してき家柄であることを誇りにしている。いまや楽隠居の身の舅の三郎右衛門(69歳)はかつて勘定頭を務めていたことから、藩財政に明るいが、このころは物忘れが目立つようになった。 会津武士にとって武芸と素読が最も大切であると思う利代の悩みは駿が素読に身が入らず数学に興味を示していることである。そうこうしているうちに物語は急展開。
「生きている間に戰などないだろう」と思っている木本家の人々の周囲に、「会津の悲劇」は忍びよる。その年のうちの12月24日に、「後戻りできない運命の職務」(90頁)である京都(きょうと)守護(しゅご)職(しょく)に就任した(というか、させられた)藩主松平容保は上洛する。 夫が容保に従って京へ行くこととなって、視界に駿しかなかった利代は「何をしにいつまで行くのだろうか」とはじめて不吉な想像に駆られる。やがて新兵衛は藩の極秘の任務を帯びているのだとわかるのだが。 木本家も京を中心とする時代の流れの中に巻き込まれていく。一方、会津戊辰戦争に欠かせない、実在の人物たる西郷頼母(さいごうたのも)、梶原平馬、山川大蔵、佐川官兵衛、横山(よこやま)主税(ちから)といった会津藩の上層部の面々がそれぞれの局面において登場するが、木本家の関わりの中、駿が「理想の会津武士」として憧れる人物は文武両道に秀でる横山主税である(331頁)。歴史上の横山主税は 5月1日の「白河城の戦い」で戦死してしまう。22歳の若さであった。若年寄の横山主税は副総督として出陣。会津の総督は家老に復帰したばかりの西郷頼母であった。
この物語ではまた、横山主税が横浜のフランス語学校を通じて、勘定奉行の小栗上野介忠順を知り、忠順が悲劇の死を遂げたときには会津に落ち延びてきた小栗上野介の奥方を横山家に引取ったとしている。
慶應4年1月3日の「鳥羽伏見の戦い」から、会津城下が戦火に包まれる日まで長い時間を必要とはしなかった。 利代は京大坂で起きていることがとてつもなく大きな事件だとは知らなかったし、依然として過去の出来事にしか感じられなかった。「まさか、そういった時代の流れが、ある日突然、自分と駿のいる時間と場所に追いついてくるとは」(264頁)。
藩主松平容保の謹慎――。木本家の人々は謹慎する理由が分からない。 「父上、戦うべきです。朝敵の誹りを受けたままでは、新しい時代を迎えたくはありません」と駿は父を鼓舞する。成長した駿の姿を目の当たりにした利代は、武家の母としての信念というより意地を通さねばと覚悟する。耄碌の症状が顕著になってきた優しい舅も老骨に鞭打って「こうなれば戦うしかあるまい。会津武士らしく」と立ち上がる。15歳以上60歳以下の家臣全員に対する登城命令が出され、駿は16歳と17歳で組織された白虎隊に配属される。白虎隊の本来的な役割は容保の護衛であったが、「ご老公」(容保)の楯になるどころか、前線で戦うことになる。 駿の初陣は官賊を懲らしめるこの時であった。暇乞いする駿に、利代は「行ってらっしゃい。本当に死ぬ覚悟はできましたか」と声をかける。 駿を送り出したら次は女の戦である。利代自身も薙刀の達人であり、会津若松は女たちで守るしかない。
会津戦争は一カ月に及び、若松城下は戦火に包まれ、焼け野原となり、「其の悲惨凄愴の光景、名状すべからず」(『会津戊辰戦争史』)。 利代は新兵衛と駿の安否を尋ねるべく、城下を彷徨(さまよ)い歩く中に,一人の農民に出会う。毎日を懸命に生き、武士の世を支えながら、否応なく戦いに巻き込まれたその農夫は利代が死ねと言って息子を送り出したことを知るや、「あんた、本当に母親か。鬼女ではないのか」と唖然とする。 利代は自答する。「良人と同じ優れた武士に育て上げること。しかしそれは何のためだったか。誇りこそが最後の寄り道であるとした舅も姑も死んだ。駿は白虎隊として戦い死んだ。戦って死ぬと決意したはずの自分は生きている。なぜだ」と。
会津戦争は婦女子や白虎隊として戦った若者など少年兵が多数戦闘に参加した点が特徴的である。また、戦争に巻き込まれて殺害された農夫の数も夥しいとの説がある。 ある一つの東北戊辰戦争を活写した歴史小説『鬼女』は〈勝者の歴史〉に対する無条件降伏でもなく、〈勝者の歴史〉に対して〈敗者の美学〉でもって異を唱えるのでもない。また民衆史観に迎合しているわけでもない。作家は恐るべき流血を伴った戊辰の内乱という歴史的な事実について、如何なる変更も加えず、戊辰戦争の時代と会津に生きた人々の「なんともいえず悲しい」実態を描いている。 (令和5年1月18日 雨宮由希夫 記) 川野邊明(雨宮由希夫)
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