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【史跡を巡る小さな旅・五】表参道

2023年04月07日 05:34 by tange
2023年04月07日 05:34 by tange

【史跡を巡る小さな旅・五】表参道

 地下鉄・表参道駅から山手線・原宿駅に向かって、明治神宮への参道が走っている。片側三車線で交通量の多い道路であるが、枝葉を大きく広げるケヤキ並木が緑陰をつくり、歩いても気持ちの良い通りである。平日、休日を問わず、多くの人々が楽しそうに散策する。
 一方、原宿駅から表参道を往き青山通りを越えて南青山の根津美術館まで続く一直線の道には、国内外の建築家による優れた作品が多数あり、さながら現代建築の展示場なのだ。建築デザインに興味を覚える人や、今まさに建築を学んでいる人は、この1・5kmほどの道程をぜひ歩いてみることをお勧めする。ちなみに現代建築とは、昭和20年(1945)から現在までに計画され完成した建築物と定義されている。
明治神宮へお参りするための道を逆方向に歩いて、原宿駅近くの国立代々木競技場から根津美術館まで7作品を紹介する小さな旅に出る。(本文中、敬称は略します)

1、丹下健三[国立代々木競技場]昭和39年(1964)竣工


 東京で初めてのオリンピック開催時に造られた大小二つの円形平面の体育館から成る国立代々木競技場。第一体育館は水泳競技場で50mプールと飛び込み用プールがあり、収容観客数は当時2万人余りだった。第二体育館はバスケットボール会場として使われた。
 竣工直後からユニークなデザインが絶賛され、オリンピック閉幕時には、国際オリンピック委員会から丹下へ功労賞としてゴールドメダルが授与された。令和3年(2021)、現代建築で三件目の重要文化財(国指定)となる。
 しかし、この優れた建築物にも弱点があった。それは屋根材として葺かれた鉄板である。鉄材は経年とともに錆びる。ペイントされていても普通鋼であれば同様で、塗膜の寿命が来れば雨水が鉄板まで達し錆を生じ、見苦しい景観を生むばかりか劣化した部分から漏水をもたらす。降雨から人々を守るという屋根に負わされた基本的な機能が果たせなくなる。
 コルテン鋼と呼ばれる鋼材がある。錆が発生することは普通鋼と同じであるが、コルテン鋼は一定の錆が生じるとその後は安定し錆が進行しないので、維持管理が容易であると言われている。ただ、コルテン鋼が市場製品化されるのは代々木競技場の完成後だったので、丹下は採用できなかった。一年ほどの遅れで間に合わず、不運と言わざるを得ない。
 防錆には、広大で複雑な形状の屋根をペイントの寿命に合わせて塗装し続けなければならず、莫大な費用がかかる。特に第一体育館の水泳競技場としての利用は限られ、費用の捻出は困難を極めた。私は、錆が大量に発生した様相を見ているが、とても痛々しく正視できなかった。
 この問題を解決したのは、丹下のデザインによる丹頂鶴と呼ばれた美しい飛び込み台5基をすべて撤去することだった。撤去後、二つのプールの上に床を張り、多種の用途に使用可能で天井高も充分にある広い一体の屋内空間となった。テニス、バレーボール、格闘技などの各種競技場となり、コンサート、大企業の株主総会、私立大学の入学試験場としても使われ、年間を通して稼働している。もともと原宿と渋谷駅に近く、収容人数も多いことが需要を支えた。
 今後、その使用料収入が維持費として適切に活用され、二度と錆ついた屋根を見ることが無いように祈りたい。
 国立代々木競技場は世界最高峰の現代建築であると、私は確信する。

2、妹島和世[Dior表参道]平成16年(2004)竣工


 仏人クリスチャン・ディオールと後継者のデザインによる洗練されたファッションアイテムを、都内でも屈指のオシャレな街、表参道で提供する店舗である。
妹島和世が主宰するSANAA(サナア)の設計による透明感のある美しい建築物だ。
 Dior社が建築家に要望したことは「4層の売り場と広告塔としての地上30mの高さ」だった。建築物の設計要素として階高がある。ある床からその上の床までの寸法だ。30mの高さを単純に4層で割ると、階高は7.5mとなる。普通の事務所や店舗ビルでは、あり得ない寸法だ。4層のビルでは、階高4mほどで地上16m前後の高さが一般的である。
 発注者の要望に妹島は、1,2,4,6階を売り場に、3,5,7階を設備階とし、さらに屋上の周囲に外壁をそのまま立ちあげた。こうして4層の売り場と地上高さ30mを無理なく実現した。設備階とは、ビルの設備関係の機械類を設置したフロアーである。
 現代建築が建てられ始めた頃、設備を重要視する余裕はまだ無く、設備室も出来るだけ狭く、機械や配管類もコンパクトに収まっているのが良い設計とされた。その結果、空調の質は劣化し、維持管理が適切に行えないため機械類も短期間で消耗していった。
 Dior表参道では、三層分の設備階が確保されたため、各階各室の空気調和(温湿度調整、換気など)が的確に行われ、維持管理も昼夜に関係なく実施でき、さらに省資源も実現される。何よりも自然に近く快い室内環境は、訪れる人やそこで働く人にとって望ましいことだ。
 妹島は外観にガラスや金属パネルを積極的に採用し、透明感や軽快感を表現する。彼女の代表作である金沢21世紀美術館では、美術館には珍しくガラスを大胆に使い、開放感を演出している。すみだ北斎美術館は、アルミパネルを全面的に採用することで、まさに北斎の浮世絵を彷彿させる斬新で軽快な建築となった。
 Dior表参道の外壁はガラスでできている。大きなガラスは容易に透明感を表現できるので、これまでに他の建築家も度々採用してきた。しかし、妹島のガラス壁は様子が違う。内側に半透明のアクリルパネルがドレープカーテンのように柔らかなひだを付け設置されている。それは外観を一体に見せて広告塔の機能を果たし、室内にあっては直射光を淡い光に変える。さらにパネルが付くことで、かえって透明感が際立つように感じる。パネルは可動式で、片側に寄せれば内から外の景色も眺められるし、ガラスの清掃にも支障を来たさない。
 現代建築の特徴の一つとして、巨匠ル・コルビジェが提唱したコンクリート打ち放しがある。Dior表参道には、その重い印象を打ち破ろうとする妹島和世の強い意志を感じるのだ。

3、黒川紀章[日本看護師協会ビル]平成16年(2004)竣工


 建築界の奇才と言われた黒川紀章、最晩年の作品である。
 昨年、黒川の設計した銀座8丁目に建つカプセル型集合住宅の解体が話題となった。各々のカプセルが一住戸として主要構造体に取り付けられ、老朽化に伴いそれを取り替えることで持続可能とするメタボリズム(新陳代謝)建築と、彼は昭和47年(1972)の竣工時に宣言した。それから50年が経ち、ひとつのカプセルも取り替えられること無く解体された。構造や施工技術そして許認可など、取り替えの仕組みが充分に検討されていなかった。それらを確定できないままメタボリズム建築と宣言する堂々たる姿勢が、彼を奇才とした所以でもあるのだ。
 看護師協会ビルにそんな彼のふてぶてしさを感じられないのは、少し寂しい気がする。完成翌年の平成17年、黒川はこの世を去った。
 いわく、「歩道に面する部分を後退させて空き地をつくり、人々の楽しい歩行を助ける」
 こんなことは、奇才でなくとも都市に建つ建築物であれば、誰でも考えることだ。さらに当時から、建築基準法の改正で後退部分を〝みなし道路〟として道路斜線による高さ制限が緩和できるため、どこでも建物の道路境界からの後退は促進されていた。
 いわく、「地上階に幅広の外階段を設け、上がった先にベストポケットパークを設ける」
 ベストポケットパークとは、半世紀も前にニューヨークの一画に現れ話題となった公園につけられ、その後一般的になる呼称だ。このベストは最良という意味ではない。チョッキ(胴着)のことだ。チョッキの小さなポケットは旅行中に列車の切符などをしまうのに便利に使われる。それが転意し、ベストポケットは小さくてちょっと利用するのに便利といったほどの意味だ。つまり、街のいたるところに設けられ日常的に使われる小公園が都市全体の活性化をもたらすという考えである。民有ビルの屋上を利用した小公園でも、正しく公共性が維持されるならば該当する。黒川の提案したベストポケットパークは現在、カフェの専用テラス席として使われ公園ではない。
 エントランスの三角錐のガラス屋根だけで、その建築家はもう奇才と呼ばれない。

4、安藤忠雄[表参道ヒルズ]平成18年(2006)竣工


 表参道ヒルズは、関東大震災の復興住宅として建てられた同潤会・青山アパートの老朽化による撤去後の跡地再開発事業で、共同住宅、店舗、駐車場の複合建築物である。それは、原宿駅を背に明治通りを越えて少し進んだ左側に、全長約250mに渡って在る。Dior表参道や日本看護師協会ビルとは反対側である。
 安藤忠雄は、長大な建築物が表参道に圧迫感を与えないように、その高さをケヤキ並木と同じほどにした。全体をふた棟に分割し、それぞれ3階、5階と低く抑えた。一方、地下は6階まで掘り下げられ、通常の建物ではあり得ない深さとなった。
 各棟の上2層に旧青山アパートの住民が入居する共同住宅38戸が収められ、地下3階から地上3階まで100余りの店舗が展開する。残りの地下部分は駐車場である。
 安藤は独学で建築を修めた。ル・コルビジェの作品に出会うためヨーロッパ各地を彷徨し、インドの大河のほとりで「人生は戦いだ」と悟る。彼は自らの作品においてコンクリート打ち放しを追求し、建築物の従来的な常識と戦い続ける。
 彼が最初に注目されたのは、大阪の「住吉の長屋」と名付けられた小さな住宅だった。その内外はコンクリート打ち放し。なぜか、2階廊下に屋根が無い。ここの住人は寝室からトイレに往く時、冬の寒さをこらえ、雨が降れば傘を差さねばならない。でも、そんなに不便を感じていないようで、楽しく暮らしていると語る。この「住吉の住宅」は建築学会賞を受け、彼の建築家としての地位を確かなものにした。
 表参道ヒルズに戻ろう。 表参道は原宿駅から明治通りまで下り坂で、そこから青山通りまでは上り坂になる。それぞれかなりの勾配である。その上り坂に長い距離で接する表参道ヒルズには、彼の深いこだわりがあった。
 坂道に沿って建物1階に路面店舗を設ける場合、坂道のどこか一点を基準として水平に屋外廊下を設け、それに面して店舗を並べるのが一般的だ。そうすれば建物の階高が同じになり、工事も簡単だ。ただ、その廊下は坂道と段差ができるので、転落防止の手摺や端部に階段が必要となる。つまり、道を行き交う人たちは、どの店にもふらっと立ち寄れないのだ。
 安藤は、表参道を歩く人々がショウウインドーのディスプレイに引かれ、直接店舗へ入って買い物をすることにこだわった。銀座では皆、そんなショッピングを楽しんでいる。
 1階の各店舗を表参道の勾配に合わせて配置し、屋内側の4層吹き抜けには、やはりその勾配に合わせた斜路を設けた。住居階は1階の階高を勾配に沿って変えることで水平にした。
 その計画は文章にすると簡単に実現しそうだが、途方もない困難をともなうことだった。表参道の勾配は定規を使って引いたような直線ではなく、微妙に変化している。つまり1階の柱や壁の高さは、それぞれの地点でランダムに異なる。それに応じて鉄筋や型枠を調整する必要があった。そのため厳密な測量に基づいて設計がなされ、工事が行われた。
 今そこを訪ねると、表参道からどの店舗へも、まさにふらっと立ち寄れるのだ。
 安藤の設計では、仕上げは殆どコンクリート打ち放しだ。彼はその美しさを建築家生命を賭けて求め続け、決して妥協しない。初期のころ、打設直後のコンクリートを自ら率先し事務所員総出で棒つつきしたという。打ち放しの仕上がりを良くするためである。そのことで、現場管理者と度々衝突していた。彼は建設会社にあまり信頼を置かず、竣工時に称賛するようなことも無かった。
 表参道ヒルズの外観は、ガラスのファサードを除いて、すべて現場でのコンクリート打ち放しで、その仕上がりは大変に美しい。それは現場管理者の努力の結果だ。先に述べた施工難度の克服と併せて、安藤忠雄は初めて施行者(大林組)を絶賛した。

5、ヘルツォーク、ド・ムーロン[PRADA青山店]平成15年(2003)


 PRADAはイタリア・ミラノで生まれた高級ファッションブランドである。その青山店は、スイスの建築家二人が共同設計した東京における旗艦店舗である。表参道から青山通りを越えた南青山に立っている。通りを挟んで反対側に在る系列のMIUMIU青山店も彼らの作品だ。
私はPRADAを、15、6年も前に名女優メリル・ストリープ主演の映画「プラダを着た悪魔」を見ていたので知っていた。その記憶のせいか、全くの偏見であるがPRADAにあまり良い印象を持っていなかった。
 二人の建築家、ヘルツォークとド・ムーロン設計のPRADA青山店の中に入り見渡すと、通常の建物に必ずある柱と梁が無い。6階建ての外周部を覆った菱型の網目状に組まれた鉄骨が構造体になっているのだ。室内側の梁は床版が代わりを担っているのか? いずれにしても、この建築物は建築基準法の構造基準に合致していないので、建築審査会の審議を経て国交大臣が認可したはずだ。地震国日本の国土交通省の許認可を得ての建築物なので、問題は無いと思いながらも一抹の不安を感じていた。
 ヘルツォークとド・ムーロンは北京オリンピックのメイン会場だった北京国家体育場の設計者でもある。通称「鳥の巣」と呼ばれる巨大施設で、日本に古くからある竹細工の入れ物にも似ていて大変丈夫そうな印象だ。真直ぐ垂直から水平に延びる細い構造体が外周かなりの数であり、それらに斜めの部材が多数からみつき、全体が一体となった構造のように見える。
 この建築物の構造解析を担当したのは日本の構造家である。彼は「鳥の巣」を一体の構造物として解析するのは不可能とし、垂直と水平の構造体だけで充分に安全であることを証明した。とすると、TVに映し出される「鳥の巣」の外観に付けられた斜めの部材は、なんなのだ?
 現代建築の作家はおおむね構造の合理性を尊重してきたが、一部の建築家は自分の感性を優先させる。
 PRADA青山店にそのような無理は無いと信じたいが「プラダを着た悪魔」のトラウマからか、この建物近くで地震に遭遇したら、私は直ちにそこを離れようと決めている。

6、藤本昌也[ヨックモック青山本店]昭和53年(1978)竣工


 誰もが知っている上品な甘さのクッキーの販売と喫茶のための店舗である。深みのある濃紺の美しいタイルを見せて、45年前から何も変わらず、凛としてここに建ち続けている。中央部に透き間があり、その敷地に対してはやや広めの中庭が見える。そこを囲む外壁タイルは純白で、通り側とは対照的だ。中庭には一本の樹木が植えられ、それを中心にテーブルがゆったりと配置されて喫茶スペースとなっている。
 表参道の延長であるこの通りは、昔は通行量が多くなかったが、最近は沢山の人々が行き交う。そのため、PRADA青山店のような高層の商業ビルも増えているのだ。
 低層で中庭を有するヨックモック青山本店は敷地利用率がかなり低いと考えられる。つまり、都市計画による容積率(延床面積÷敷地面積)の上限をかなり下回っているはずだ。そんな場合、一般の経営者は建て替えを考える。
 現在の都心部では、土地価格の高騰もあり、建築物の耐久性を無視して経済的な理由だけで優れた作品を簡単に撤去し、新しく建てることが横行している。適切に打設されたコンクリートの寿命は100年と言われているが、完成後40年ほどで建て替えるのが常識となっている。
 さらに、優れた建築物はその時代を背景とする文化の表象であり、経済性を考えるだけで破壊するのは極めて残念なことだ。一旦撤去された建築物は、当然のことであるが、決して元に戻らない。
 この美しい建築物の存在価値を認め、経済的な非効率もいとわず原形のまま活用し続けることを決めたヨックモックの経営者は、安易な建て替えの風潮がはびこる昨今、大いに称賛されるべきと思う。
 半世紀ほど前にそんな経営者と出会えた建築家をうらやましく思いながら、中庭で青山夫人たちがゆったりと午後の時間を過ごす雰囲気にも馴染めず、いつも私は、その前を足早に通り過ぎるのだ。

7、隈研吾[根津美術館]平成21年(2009)竣工


 根津美術館はこれまでに紹介してきた作品が建ち並ぶ都市軸の突き当たりに位置している。東武鉄道創業者である根津嘉一郎が収集した日本と東洋の古美術品を保存し展覧するために、その屋敷跡に設立された私立美術館である。今井兼次設計の旧館が取り壊され、現在の本館が隈研吾の設計で完成した。
 その屋敷には丹精された広い回遊式庭園があったが、そのまま今に残された。美術館は一般に壁が多い閉鎖的な空間になりがちだが、この1階に立つと、美しい庭園の景色が取り込まれ大変開放的な印象を受ける。
 喧騒の街を抜け心静かに美術品を鑑賞するため、建築家は屋根庇を深くし、その下に入口へ続く小道を設けた(写真左側)。原宿駅からの軸線に対して直角に折れた50mほどの小道は、片側の壁が細い竹で仕上げられ、反対側は庇下まで竹の生け垣とし、歩いていて気持ちの良いアプローチ空間だ。美術品の鑑賞に訪れた人々にとって、なかなか良い仕掛けである。
 しかし、その小道を歩き終わろうとすると、前方に広い駐車場が目に入ってくる(写真手前)。せっかくの仕掛けが台無しだ。竹の生け垣を直角に曲げ美術館入り口(写真右側)まで伸ばし、視線をさえぎるべきだった。
 屋根はおおらかな切妻で構成され、濃いグレーの和瓦を載せ、深い庇部分は薬品処理された同系色の鋼鈑で葺かれている。ただ、その庇上端は、深いがゆえに道路からもよく見え、最近まで表面の膜が剥げたり、めくれていたりして見苦しかった。仕上げ材の経年変化に、もう少し配慮があっても良かったのではないかと思う。

 隈研吾は、その作品において、木材を外部仕上げとして降雨にさらされるまま使うことが多い。たとえばオリンピック開催のため造り直された国立競技場の外周庇に、彼は木製ルーバーを採用した。伝統建築の屋根庇は必ず下を向き、軒裏は降雨から守られているが、国立競技場のルーバーは上向きで真ともに雨を受ける。これから先、腐食などによる落下の恐れは無いのだろうか? 何か対策が取られていると信じたいが、心配である。
 なお、五層の庇で最上部のルーバーだけは、木材に似せた着色アルミ製である。地上40mという他と比べ圧倒的に高いことを懸念しアルミにしたのであれば、彼は、木製ルーバーが将来腐食などで落下するかもしれないことを認めているのだ。
 隈研吾は竣工時のTV出演で木製ルーバーの経年変化について言及せず、47都道府県すべての木材を使ったと説明するばかりだった。

 表参道の小さな旅を終え家路に就きながら、ある妄想が浮かぶ。
 令和○年8月29日、主要紙夕刊の社会面の記事である。
 「本日午前10時頃、福島県会津若松市から国立競技場を訪れていた鈴木重光さん(30)は、入口近くで上部から落下した二本の木材が頭部にあたり病院へ搬送されたが、そこで死亡が確認された…略…その後の調査で、二本のうち一本は鹿児島県産、他は山口県産の杉材と判明した。現場付近では、戊辰戦争はいまだ終わっていないようだとの噂が立っている」

鈴木丹下


次号、「江川英龍と江戸屋敷」、「東京ミッドタウン」

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