書名『友よ』 著者 赤神諒 発売 PHP研究所 発行年月日 2022年12月21日 定価 ¥2100
「一領具足」と呼ばれる半農半士を主力とした軍を率い、四国に覇をとなえた長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)を主人公にした小説は司馬遼太郎『夏草の賦』(1968)、宮地佐一郎『長宗我部元親』(1997)、天野純希『南海の翼―長宗我部元親正伝』(2010)など数多いが、その子・信(のぶ)親(ちか)を主人公にした小説は珍しい。 天正3年(1575)夏、土佐一国を統一した元親は10月、信長に使者を送り、四国征討のことをつげ、かつ嫡男弥三郎の烏帽子親となってくれるよう依頼。弥三郎は信長から偏諱の「信」を拝領して「信親」を名乗る。 信親は六尺一寸(約1.85m)堂々たる体躯の持ち主で、武勇にすぐれ、人望のある、やさしい心根の好青年で、長宗我部の跡継ぎとして将来を嘱望された人物であったという。その生涯を本書の著者は「土佐の深山幽谷から湧き出ずる清流の如く濁りがなく研きたての刃のように清冽」(118頁)と描く。
本書は第一部「石清川」、第二部「中富川」、第三部「戸次川」の三部構成。 第一部は土佐の御曹司信親の初陣から天正7年8月の波川(はかわ)の乱までを描く。 天正6年12月、讃岐藤目城の戦いが信親の初陣。讃岐方の守将新目弾(にいめだん)正(じょう)以下500名が城を枕に殉じ、土佐方も700名が命を落とす凄惨極まりない戦いであった。
「信親も戦いに明け暮れる人生を覚悟していた。だが、戦場がかくも過酷な修羅場だとは思わなかった」(69頁)。 また、敵将新目弾正は信親にとって生涯忘れ得ぬ将となった。「われらは故郷を守るために集い、友として戦っただけだ」(66頁)との敵将新目弾正の言葉に信親は限りない衝撃を受けるのである。本書書名の由来はここにある。 波川の乱は主筋に当たる土佐の名門・一条家の軛(くびき)から完全に放たれるべく元親が仕組んだ謀略であった。信親の叔父に当たる波川清宗の謀反をでっちあげた元親を信親は非難する。元親と信親は仲睦まじい父子で言い争う姿を家臣団の誰もが見たことがなかった。「今回が初めての父子の軋轢」(178頁)であった。
天正9年(1581) に元親は四国全土の統一に成功しているが、第二部「中富川」はその翌年の天正10年5月から天正13年7月までが舞台背景。 かつて元親は信長より、「四国の儀は元親手柄次第に切取りへ」の朱印状を貰い受けていたが、石山本願寺を屈服させ天下布武をほぼ手中にした信長は元親の四国統一の野望を目障りと感じ、手のひらを返して対四国政策を変更する。
若き信親が信長をどう観ていたか。作家は信親が「俺が四国の乱世を、次に全国の乱世を終わらせてやる」(169頁)との自負を持ち、「もう戦をせずに済むのなら、信長に天下を取らせればいい。大事なのは乱世の終焉だ」と考えていた(99頁)とする。 一方、信長は元親との約束を反故にするどころか、天正10年(1582)元親討伐の軍をおこす。が、6月2日、本能寺の変が勃発。元親は間一髪危機を免れる。 元親は畿内の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図る。8月28日、宿敵であった十河存(そごうなが)保(やす)を中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置く。
信長の死を奇貨として信長の後継者となった幸運児・羽柴秀吉の天下統一への速度は信長のそれを上回るほどに速かった。 天正13年(1585)春、元親は伊予を平定し、四国の覇者となるが、この時すでに秀吉は元親征伐を宣言していたのだ。6月、秀吉は雲霞の如き十数万の大軍を派遣。元親は抗戦するも各地で敗北を続け、終に7月25日、秀吉の軍門に降る。阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵されたものの、星霜十年をかけて成し遂げた四国平定はこの時烏有に帰したのである。
第三部は運命の「戸(へ)次(つぎ)川」である。秀吉に降伏し、土佐一国に封じ込められ、豊臣大名となった元親は秀吉の九州征伐に駆り出される。天正14年(1586)12月の豊後戸次川の戦いは島津攻めの前哨戦だが、元親は信親とともに従軍する。
敵は精強で鳴る島津勢3万に対し、秀吉軍先発隊の四国勢は6千にすぎない。しかも友軍の仙石秀久、十河存保は「昨日の敵」で長宗我部との間には深く暗い怨恨があった。彼らは「攻撃すべし」と元親を挑発。秀吉という虎の威を借りる軍監・仙石秀久の独断で戦いは強行される。仙石はまんまと島津の釣り(つり)野(の)伏せ(ぶせ)の計略に嵌る。仙石は負け戦と知るやいち早く戦場を離脱するが、全滅に近い乱戦の中、信親率いる長宗我部勢と十河存保率いる十河勢は最後まで留まる。
12月13日、信親は22歳の若さで討死。 信親が必敗必死の戦場に踏みとどまり、なぜ最後の一兵まで戦ったのかは謎であるが、作家は守るべき者のために駆け抜けた信親の信念を読み取り、「長宗我部を生かし、土佐の皆を守るため」(411頁)信親は死を賭して戦ったとする。 後継者として期待し家督を譲る予定であった嫡男に先立たれた元親の悲痛。信親の死が元親の晩年を狂わせた。それまで、長宗我部家は家臣の言に対し、真摯に耳を傾ける名君元親の下、家臣団の強い団結を誇っていた(119頁)が、人が変わったように落ち込んだ元親のもと分裂する。後継者問題で元親は次男、3男をさしおいて、偏愛する4男で末子の盛親の後継を強行し、これに反対した家臣を血の粛清で弾圧するのである。
信親の悲劇は長宗我部家がたどる運命を予見するかの如くであった。盛親 は関ヶ原では西軍に与して改易され、大坂の陣では豊臣方として大坂城に入城するが落城後、捕らえられ処刑され、長宗我部家は断絶。だがこれらは後の物語である。本書は信親の死で終わっている。 作家はこれまで『酔象の流儀 朝倉盛衰記』の 山崎(やまざき)吉家(よしいえ)、『仁王の本領』の杉浦玄任など、強い信念で己の道を貫いた実在の人物を描いてきた。マイナーな、ポピュラーでない、いささか馴染みの薄い人物に光を当て戦国小説に独自の境地を切り開いてきた。本書もこの系列に位置する作品である。 信親には川を愛し、「川は人の世に似ている」と語るように何でも川に譬える癖があり、つねに隣人を「友よ」と呼びかける。血縁であっても平気で裏切られる乱世に、友情なるものを信じ、家臣はもちろん領民、挙句は敵までを魅了し、「友」として取り込み、人を動かしていく不思議な力を持つ人物が土佐の御曹司であるとして、作家は信親を造形している。
本作は戦国末期の土佐という具体的な時代を背景としながら、「友」と「川」をキーワードとして描いた創作性豊かな歴史小説である。 史実をベースにしながら、一方、作家は本作を一つの戦国青春群像劇として展開させている。群像の一人が新目弾正であり、信親が愛した女「るい」である。るいの身の毛のよだつような素性を描き切ることにより、清冽な信親の生きざまとともに元親のおどろおどろしい謀略を具現化させている。優れた作家というものは史実とフィクションを見事に融合させ、これほどまでに豊かな想像力を駆使して自在に歴史の断面を切り取ることができるものなのか。仁淀川、四万十川、土佐の川は土佐の峻険な四国山脈から湧き出し、雄大な海・土佐湾に注ぐ。川をキーワードの一つにしたことも作家の炯眼である。 (令和5年2月8日 雨宮 由希夫)
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