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2023年春季号 第1号

十津川郷士⑬(御守衛春秋・禁門の変2)

2023年03月14日 15:31 by tama1
2023年03月14日 15:31 by tama1

 吉見良三著「十津川草莽記」より

文久三年(1863)七月十九日、日本史上において空前絶後の出来事と言われた「禁門の変」、この御所の大危機に際して、十津川郷士は、いったいどうしていたのでしょう。

鷹司邸跡

  このころ、京詰め郷士の屯所は先の⑪転々とする屯所の欄でも述べましたが、御所九門の内、院参町の妙法院宮御里坊にあった。院参町とは仙洞御所と鷹司邸にはさまれた細長い通りで、むろん御所の築地内、郷士の屯所としては、これ以上の場所はなかったという。 常駐の人数が百三十人、うち八十人は議奏、伝奏の護衛要員で残る五十人が予備として控えていました。屯所が築地内にあり、郷士も毎日、議奏、伝奏方の供をしているから、情報の入手も以前よりは速く、また容易になっていました。そういう意味では長州藩の不穏な動きも六月の中旬にはもう耳にしていたようです。

 郷士総代の上平主税は、万一の際に、わずか五十人程度の予備兵ではこころもとないと郷里から後詰めの兵百五十人を急遽呼び寄せ、衣棚通夷川上ルに民家を借りて支屯所とし、全員そこで待機させた一方、伝奏方には幕府、長州双方へ鎮静の勅使を出すよう建白、その勅使の警衛は十津川郷士に仰せつけられたいと誓願するなど、矢継ぎ早に手を打っています。このあたりは、いかにも主税らしい才気と手際良さがあらわれています。

 ですが、後詰めの兵百五十人は、京に出てきたばかりで万事に反応が鈍く、主税が期待したほど効果的に動いてくれなかった。この融通の利かなさが激戦のさなかに致命的な失態を招くことになったのです。 -失態とは何か- 「十津川記事」に次のように記録されています。

 十九日味爽(まいそう)俄然砲声ノ禁門ニ轟クヲ聞ク。即(すなわち)妙法院宮御里坊ニ屯在セシ我隊百三十余人、急遽結束シ、馳セテ承明門外ニ至ルニ、已ニ薩藩ハ会兵ニ与力シテ、長兵ノ寄手ト激戦シ、蛤門内、公卿門外ハ既ニ腥風血烟(せいふうけつえん)ノ衢(ちまた)トナリ一。

 砲声を聞いて駆けつけたところ、蛤御門から公卿門にかけての一帯は既に戦場になっていた、というのだから、郷士にとっては、前年の八・一八政変の時と同様”不意討ち”だったようです。 総代の上平主税は急いで薩藩の西郷吉之助に、十津川隊到着の旨を告げ、全員を引率、銃弾をかいくぐって禁裏の御台所門まで来たが、門内に入ることを許されず、やむなく東門(日御門)前の学習院に入って、命を待つことにしました。                 

  学習院跡

  間もなく、一同は内裏に呼び入れられ、北部屋で待機するよう命じられました。 そのころ内裏の周辺は砲煙に包まれ、公卿たちはうろたえあわてて殿中をおろおろ駆け回り、宮廷内は蜂の巣をつついたような騒ぎで、ついには天皇の叡山への動座の声まで出たようです。郷士らが待機を命じられたのは、この動座に備えてのことだったようです。 西田正俊著「十津川郷」によると、奥から白木の箱が運び出され、「十津川兵はこれを守れ」と命じられた、ともいいます。

 いずれにしろ、形勢が緊迫して、主税は兵の手薄さを痛感したといいます。 頭数こそ百三十人だが、議奏、伝奏の護衛は通常通りに行われ、御文庫の守衛にも二十人ほど割いていたので、手元で待機しているのは三十人ほどにすぎない。そこで主税は衣棚の支屯所に待機している後詰の百五十人を急いで呼び寄せるよう命じました。 伝令にたった平谷村の藤井織之助と上湯川村の田中腎七郎の二人は、ただちに衣棚に 走り、百五十人を引き連れて堺町御門まで戻って来ました。

 

 堺町御門

  が、然し、ここで二人は重大な失策を犯していることに気づいた。 二人は御所の門鑑を持っていて、自由に出入りが出来るが、支屯所の百五十人は門鑑を持たず、伝奏方への事前手続きもしていない。門を固めていた松江藩は当然ながら通行を阻止しました。 二人はあわてて伝奏御殿に走り、門鑑を得て堺町御門へ引っ返してきたが、もう遅すぎた。彼らが門にたどりついた時、隣の鷹司邸では、両軍が攻防の真っ最中。 邸の火は周辺の民家に燃え広がり、あたりは阿鼻叫喚、逃げ惑う市民が充満していて 近づくこともできず、そのうちに堺町門外で待っていた百五十人の姿も見えなくなった。

 その百五十人ですが、彼らも群衆に押されてその場にとどまっておれなくなり、ひとまず衣棚に引き返した。ところが、その衣棚の支屯所にも火が移り、あっというまに焼失してしまったのです。 彼らは仕方なく祇園社の境内に逃れて一夜を過ごし、翌日、食料を求めて山科へ出たが知人もいない山里では調達も困難で、進退きわまり、結局、主税ら禁裏にある幹部には無断で、全員郷里の十津川へ引き上げてしまったのです。

 不案内な土地で、いかに事情があったとはいえ、無断で戦場を抜け出すのは重大な規律違反である。が、無断帰郷の郷士らはそれに気づいたふうもない。 部隊の禁門通過の事前手続きを忘れたり、勝手に郷里に帰ってしまったり、士気弛緩も甚だしい。伝奏方もさすがに肚に据えかねたのか、主税ら総代を呼び出し、厳しく叱責しています。 「十津川記事」はいいます。

  伝奏野宮家ヨリ郷士総代出頭スベキ旨達セラレ、直ニ両名計リ参殿セシニ、雑掌ヨリ其郷、御所御警衛ノ義ハ以後其ノ義ニ及バサル故、勝手ニ帰国シ苦シカラズ。只是迄貸渡サレアル学習院並宮方御里坊共、御用ニ付、不日引上ケラルヘク筈ナリトノ口達ナリ

 ひらたく言えば、首切りを宣告されたのです。つづく

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