【萩博物館】
【奥州会津辺大合戦】
会津戦争の激しい攻防を描いた錦絵。薩摩・長州・土佐・大垣などの藩兵を主力とする新政府軍は、明治元年(1868)8月21日、母成峠を突破し会津若松城下に侵入する。24日、新政府官軍は若松城攻略を開始、一進一退を繰り返すが、アームストロング砲・ライフルカノン砲など50門の大砲で包囲したことにより優勢となった。会津藩主松平容保は約1ヵ月の籠城のすえ9月22日に降伏、新政府軍は会津藩主父子に家名断絶という厳しい処分を申し渡した。その後、旧会津藩士による再興嘆願が実り、明治2年11月、陸奥国下北半島(青森県)に3万石が与えられ斗南藩として再出発する。しかし酷寒と飢えのため死者が続出した。
【戊辰戦争忠勇士の図】
戊辰戦争で活躍した楢崎頼三らを描く錦絵。薩摩・長州両藩をはじめ、新政府軍(官軍)で活躍した戦士らを描いたものの一部と考えられる。なかでも長州藩士楢崎頼三は、戊辰戦争のさい第一大隊二番中隊司令に任じられ、東山道先鋒として関東・東北各地に転戦した。図中では楢崎について「智勇万人にすぐれ、種々計略をもって諸隊をいさまし、敵をうちとる数をしらず、古今の勇将なり」と評する。
この楢崎頼三こそが、白虎隊士飯沼定吉を長州の自宅に連れていき二年間養育して勉学に励ませた会津藩にとって恩人です。
【長州藩士 楢崎頼三氏】
実は、愛媛県松山市在住の私の長女が山口県萩市の「萩博物館」を訪問しました。その際に、少なからず長女も会津に関して興味を持っていることから、萩博物館の展示物の中で、会津に関する写真を撮ってきてくれました。
【長州藩の前原一誠・奥平謙輔、会津の人々と交流】
この写真はとっても貴重なものです。長州藩の前原一誠と奥平謙輔と共に会津藩の広沢安任をはじめ、永岡久成、そして会津城下の真龍寺の住職河井善順が一緒に収まっている写真です。この河井善順は、会津戦争で敗れた会津藩のために奔走し、長州藩出身の新政府高官に懇願して、会津藩の山川健次郎と小川亮を長州藩の奥平謙輔に預けられる際に仲介の労を取りました。その後、西本願寺の大講義の職に任じられ、宗派の発展にも尽くしました。会津藩にとりまして、前原一誠と奥平謙輔は、恩人中の恩人です。
【会津戦争で長州藩が使用した太鼓・スペンサー銃・ウィンチェスター銃】
私は「萩博物館」に行ったことがありません。長州藩からみた会津藩の扱いをもっと見てみたいと思いました。
【記者 鹿目 哲生】
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