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miki の 史跡巡り帳、“三池藩” に来訪した新選組隊士 ②

2023年03月14日 15:28 by minnycat
2023年03月14日 15:28 by minnycat

“三池藩” に来訪した新選組隊士 ②

テーマ:三池藩 先週までの春の暖かさはどこへやら 一気に冬に戻ってしまい 再びこたつへと舞い戻った私です。 春の陽気が続いてくれれば 大宰府へと行きたかったのですが残念。

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前回の 「 “三池藩” に来訪した新選組隊士 ① 」  の続編です。 主人公は、新井 忠雄 さんです。 新選組参謀・伊東甲子太郎と共に 九州に遊説の旅にとやってきた 新井忠雄さん 。 その途中に、私のふるさと三池藩へとやってきていました。 そして、 新井さんを含む伊東さんご一行は 遊説の旅から京に戻ると、 孝明天皇の「御稜衛士」を拝命し 新選組から離脱します。 以上の流れを、 前回でご紹介しました。 今回は、その後の新井さんの人生を 新人物往来社 『 新選組大人名事典 』 から ご紹介したいと思います。

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『 慶応三年 三月二十日、伊東は新選組と会津藩の許可を取り付け、同志とともに屯所を出た。その同志たる者、 伊東甲子太郎、三樹(木)三郎、篠原泰之進、 新井只雄、加納鷲雄、阿部十郎、内海二郎、 橋本皆助、毛内有之助、服部武雄、藤堂平助、富山弥兵衛なり。                     (『泰林親日記』)

  これに斉藤一を加えた十三名が、最初の御陵衛士のメンバーである。 彼らは三条の城安寺に一泊したのち、 翌日より五条の善立寺に入り、 六月まで同寺を屯所とした。その間の五月一日、新井はふたたび九州に向かい、十一日には大宰府で 東久世道禧・三条西李知・真木外記・土方久元らと面談、新選組よりの分離に成功したことを報告している。このとき新井は、俊蔵を名乗っているが、これは分離にさいしての改名だったと思われる。  

 十一日晴、禁裏御陵衛士荒井俊蔵、京師より当著(到着)。 去る一日、京師出立候よし。宮中御模様追々よろしくあいなり候よし。  (三条西李知『三条西李知筆記』)

任務を終えて帰京した新井は、 八月八日には大宰府へ向かうため伊東と京都を出立し、二十一日に到着すると真木外記と面談している。 八月二十一日、伊藤甲子太郎、荒尾両人、宰(太宰府)来る。京は八月八日発足。(『日知録』)  

帰京の時期は不明だが、十一月十八日に伊東が新選組に殺害される 油小路事件のさいには、五日より江戸で同志を募集するために離京していた。そして、十一月十二日に江戸を出立し二十二日には四日市に入った。 『泰林親日記』は、このように江戸出立を 十一月としているが、時間的に「十二月」の誤りであることはいうまでもない。その四日市で、新井は妻の小静と出会っている。駅辺を顧みれば、 怪しき乞食体の女人あり。ほのかに見れば、まさに我が妻なり。 人を避けてひそかに妻を呼び、何事かと問うに、妻答え曰く、京都高台寺の義士、賊兵の策に陥入り、七条油小路にて伊東はじめ四人の者討死し、余は潜むところを知らず、と新井妻のいうところを聞きて、ただ茫然として夢のごとし。      (『泰林親日記』)

 小静はこのとき二十六歳であり、結婚が新選組在隊中であったのか、その前、あるいは 離後であったのかは不明であり、名前は戸籍上は小志づというが、墓碑には小静とされている。中村某の娘という。 妻を説得して京に帰らせると、新井は伊勢の津から伊賀路に入り、宇治に抜けて十二月二十五日に 泉涌寺の裏山より入京した。 そして、近くに住む井上謙蔵より事情を聞き、同士が伏見の薩摩藩邸に潜んでいることを知らされ、急行して合流を果たしている。  

  翌年一月に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、三木三郎・篠原泰之進・阿部十郎らと 中村半二郎の薩摩藩一番隊に加わって戦い、一月八日の近江国松尾山における 赤報隊の挙兵にも同志と参加し、三木率いる二番隊の監軍として出陣した。 しかし、総督府からの命令によって帰京すると、三木・篠原とともに逮捕・投獄される。 釈放されたのは三月七日のことで、薩摩藩預りの身となった。 六月十五日には、新井らは会津征討軍越後口総督の仁和寺宮嘉彰より 軍曹に任じられ、新井は同月二十二日に京都を出陣し、七月二十日までに全軍が柏崎に到着した。

 その後、新井は高鍋藩兵とともに新潟侵略に参加し庄内に進攻することとなる。このときには、陸之助と改名していたようで、十月二日に提出された高鍋藩届書に「新井陸之助一業越羽戦状概略」という文書がある。先だって北征御総督兵部卿宮、柏崎御本営の節、高鍋兵隊へ戦争指揮のために付き添い候よう、軍監岩村、宮川両氏より御沙汰に付き、すなわち海軍新潟港先鋒凱旋後、羽州田川郡庄内口先鋒、同口大鳥村奇兵の戦争 ―                 (『太政官日誌』)    

 このように出陣の様子が記されているが、軍監の宮川は慶応二年の三条制札事件で、首を落とされそうになったところを新井が助けた、土佐の宮川助五郎である。   

 明治二年六月二日発令の戊辰戦争軍功賞典で、新井は永世五十石を授けられた。 永世禄を授けられるのは新井レベルの地位では破格のことで、越後口での戦功が高く評価されたものである。その後、刑部省に出任し、以後も司法畑を歩み続け、十四年までには東京控訴裁判所の判事となり、十九年に退職、東京下谷の仲御徒町に住み、五十七歳で病死した。』

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  <幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 【 東京都 谷中霊園 『 新井忠雄の墓 』 2008.12撮影 】 こちらが徳川慶喜などそうそうたるメンバーが 眠ってらっしゃる谷中霊園にある新井さんのお墓です。 妻の小静さんと並んで名前が刻まれています。

 私は、谷中にお墓巡りに行くまでは、 新井さんのことを詳しく知らなかったので 単に 「 新選組隊士の新井忠雄 」 と思い、 わりかし標準的な小さめの墓石を探していました。 しかし、 実際に探し当ててビックリです。 元 新選組隊士のお墓の中ではご立派です。 それで疑問に思ったので、 今回 新井さんについてちょっと調べてみた次第です。 戊辰戦争での戦功、 戦後にご活躍された方でした。 今回、新井さんの新選組以後の人生を知れて やっとこの墓石の大きさも納得がいきました。 人生、どうころんで 自分がどんなお墓で眠るのか分らないものです。

<引用文献> ・新人物往来社 『 新選組大人名事典 上 』

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