書名『女スパイ鄭蘋茹の死』
著者 橘かがり 発売 徳間書店 発行年月日 2023年3月15日 定価 ¥720E
不幸な時代、日中のはざまで生きた女性として李香蘭、川島芳子が著名だが、日本占領下の上海に生きた日中混血の女性・鄭蘋茹を知る人は少ないのではないか。 鄭蘋茹の父鄭鉞は上海高等法院の検察官。清朝末期、官費留学生として来日し、中国同盟会に入会した孫文以来の国民党の幹部である。蘋茹は大正3年(1914)5月、そうした中国人の父と、茨城県真壁出身の日本人・木村花子(鄭華君)を母とし、東京牛込に生まれている。
1930~40年代の日中関係――。日中戦争は拡大の一途を辿り、戦火は中国全土に広がり、泥沼に陥っている。日本軍占領下の上海には戦禍の難民が租界に群衆なって流れ込み、人間地獄と化している。日中双方の様々な思惑から謀略が渦巻き、「東洋のパリ」と謳われた上海はテロや戦火で荒廃していく。抗日テロ組織の巣窟と化していた「魔都」その街で、蘋茹が国民党の特務機関・中国国民党中央執行委員会調査統計局、略して「中統」上海弁事処行動隊の正式メンバーとなったのは盧溝橋事件、第二次上海事変が勃発し日本と中国が交戦状態に入った昭和12年(1937)の秋頃である。翌年1月、「爾後、蔣介石政府を相手とせず」との第一次近衛声明が出される。
本書のもう一人の主人公ともいうべき花野(はなの)吉平(きちへい)は明治45年(1912)3月、北海道江別町(現・江別市)の生まれ、『歴史の証言』(龍渓書舎 1979年)の著書がある。鄭蘋茹が「中統」の工作員となった昭和12年の秋頃、吉平は奇しくもほぼ同時期に上海陸軍特務部総務班に勤務し始め、「和平工作」に少なからず関与している。その「和平工作」に参集したメンバーの中にいた一人の女「親愛なる中国工作員」(『歴史の証言』)が即ち鄭蘋茹であったのである。 軍属でありながら、公然と軍を批判、和平を唱える吉平は昭和14年(1939)5月 上海憲兵隊に逮捕、勾留される。
翌年3月30日の汪兆銘政権誕生の翌日に釈放されるが、吉平が憲兵隊に拘留され獄中にあったその間に「かけがえのない人」を亡くす。鄭蘋茹は処刑されていたのである。吉平にとって蘋茹の身に起きた「戦慄すべき事件」は到底承服できるものではなく、「事件の真相を突き止め、彼女の無念を晴らす」べく、吉平は動き出す……という形をとって物語は語られる。
重慶国民政府の工作員となった鄭蘋茹への最初の「指令」は昭和14年(1939)春、敵国日本の宰相近衛文麿公爵の令息・近衛文隆に近づき、彼を篭絡して、囚われている工作員の釈放を要求せよ、であった。文隆はその年の2月に東亜同文書院の学生主事(講師)として上海に赴任していた。蘋茹は意図をもって文隆に近づくが、「偽装恋愛」はたちまち離れがたい関係に。蘋茹は自分の身分を明らかにして、文隆と共に手をたずさえて重慶を訪れ、蔣介石・近衛文麿の直接連絡ルートを作って、日中和平を図ろうとしたとする説が有力だが、この「和平工作」のことは本小説の中に直接の言及はない。文隆との熱き恋は文隆の日本への帰国送還であっけなく潰えるが、その年の12月には次に発せられた指令のもと、蘋茹は丁黙邨暗殺未遂事件に巻き込まれる。 第2、第3の指令は汪兆銘政権の要人で「ジェスフィールド76号」の中心人物・丁黙邨に接近し懐柔して、暗殺を期して誘導せよ、「裏切り者の丁黙邨を排除せよ。直ちに行動を移せ」という最も過酷な任務であった。「……76号」とは汪兆銘擁立工作を前提として、日本軍のバックアップによって成立した抗日テロ弾圧組織である。
吉平は蘋茹処刑までの経緯を調べるべく、亡き女の足跡を丹念に辿る。時には吉平の(=著者の)推測を交えつつ、物語は推理小説の謎を解くように進行していく。 12月21日午後5時、暗殺は失敗。一人取り残された蘋茹はフランス租界の万宜坊の家に逃げ帰る。まず父の書斎に報告に行き、次に「信頼できる知人」上海憲兵隊分隊長藤野鸞丈少佐に電話している。藤野との電話やり取りは何度であったか不明だが、蘋茹は「どうしたらよいのでしょう。日本側にも悪いし、中国側にも悪くて、どうしたら良いのかわかりません」(252頁)と縋りついている。この謎めいた言葉の真意はどこにあるか興味深い。投降する前に、電話で相談した藤野に「自首しても罪を認めれば許されるはず」と断言され、家族に類が及ぶのを恐れ、投降、出頭を決めたとの母華君の証言もある。
「できることなら何でもする」という藤野の甘い言葉を蘋茹も華君も素直に信じてしまったのか。蘋茹が投降した後、藤野は父鄭鉞に電話して、「娘さんが重慶のために働いているのは、以前から薄々知っていました。見逃すわけにはまいりません」と断固とした口調で告げている。鄭一家は「日本軍の手ごわさ、残忍さを見抜けなかった」(228頁)かくして、「家族を守るためには、自首するしかない。逃げるという選択肢は残されていないのだ」と鄭蘋茹は覚悟するに至る。 自首。本小説では、「翌朝」、家族に自首することを告げ、「12月26日の夕刻4時頃」自首したとする。が、家を出た後の足取り及び投降の日についても諸説あり。
「犯行後3日目」説もあり、「年が明けた1月初旬=二週間後」説もある。 藤野の連絡所に蘋茹が突然やってきて自首したので逮捕したとの日本側の記録もある。いずれにせよ投降したその日のうちに中国側(丁黙邨)に渡されたことは確かであろう。逮捕後、蘋茹は処刑される日まで、憶定盤路のさる大邸宅に監禁される。 汪兆銘政権の要人の暗殺未遂は南京国民政府樹立を目前とした汪兆銘政権と日本にとっては到底見すごすことのできない大事件であったが、ここで、日本側はさもしくも醜い取引を父鄭鉞にもちかける。「和平派(=汪兆銘側・日本側)への参加に応じれば、鄭蘋茹を釈放する」というのだ。蘋茹の生死は父鄭鉞の対応次第となった。鄭鉞は正義と名誉を守り抜く高等法院の検察官であった。日本軍に阿るか否か悩み、己れの決断次第で愛娘の生死が決まると知って苦悶した末、やむなくこれを拒絶する。鄭鉞は節を曲げなかったのである。この段階で、鄭蘋茹の運命は決定した。
鄭鉞は丁黙邨と時々会うようになった娘の様子から異変を察していた。蘋茹は結果的に婚約者の王漢勲を裏切り、文隆への思いも振り切り、両親を欺き、類稀なる美貌を武器にして生贄のように丁黙邨の前に身を投げ出し時には官能の愉悦に浸ってきた。勘の鋭い父は娘の本性をとうに見抜いていて、白羽の矢を立て工作員になる運命をうけいれさせたのではなかったか。もしそうなら……、あらためて父の底知れなさを思い知ると蘋茹自身に述懐させている(212頁)。父と娘の血涙滲む凄まじい葛藤を記したこの下りは 本作品のクライマックスシーンであろう。 処刑。
日本の傀儡政権である汪兆銘新政権が南京に成立する直前の昭和15年(1940)「2月半ば」(日時は特定できないらしい)、「76号」と日本憲兵隊の監視の下、暗殺未遂の実行犯、重慶側のテロリストとして銃殺刑に処せられた。享年25。 映画『支那の夜』(伏水修監督 長谷川一夫・李香蘭主演)の大ヒットによって、李香蘭(20歳)がスターの座に駆けのぼったのは、奇しくもこの年のことである。 日中混血の生まれという宿命を享受し葛藤しながらも中国人としての愛国意識に目覚めた蘋茹が諜報員としての活動したのはわずかに約2年半ということになるが、 暗殺に失敗し、「本物の中国人になって、日本の侵略から母国を守るために」とのすべての目論見が一瞬で水泡に帰したと知った時、蘋茹はそもそも自分の役割とは何だったのか振り返っている(248頁)。
鄭蘋茹の両親は中国人を「支那人」と見下げた社会背景での国際結婚で結ばれ、子らには「日中二つの国の役に立ってもらう」ことを切望したが、皮肉なことに夫妻のそんな揺るぎない決意が蘋筎を追い詰めた――そう思えないでもない、と著者は吉平に語らせている(58頁)。
花野吉平は蘋茹を通じて鄭家にも出入り、蘋茹の両親とも交流し、蘋茹の処刑後も、そして戦後も、鄭家と家族的な交際を続けることになる。吉平の行動には日本人としての贖罪の気持ちも込められていたのであろう。
謀略あり、暗殺あり、国境を越えた恋愛ありの日本占領下の上海という「時代」と「場所」の制約の下に生きた一人の女性・鄭蘋茹の行動と思想形成に思いを致し、佇立することを禁じ得ない。鄭蘋茹は川島芳子や李香蘭に勝るとも劣らない悲劇をそのまま生身の女として負うという鮮烈なる生を刻している。
若き鄭蘋茹の人間像に迫り、人間の運命を浮き彫りにした歴史小説の傑作、真に優れた文学作品の誕生を心より嘉したい。
(令和5年3月25日 雨宮由希夫 記)
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