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江戸時代の会津藩屋敷と現在

2023年06月07日 14:22 by tetsuo-kanome
2023年06月07日 14:22 by tetsuo-kanome

 会津藩の『江戸上屋敷』は、会津藩の祖である保科正之公の時代は、鍜治橋内にあり、後に桜田門内に移ります。その後、貞享元(1684)年、会津藩第二代藩主の松平正容公が、正式に御家門に列すると、大手前竜ノ口の屋敷を拝領、宝永6(1709)年には、9,150余坪の 和田倉門内を拝領し、本邸として幕末まで使用する事になります。

 私は、千代田区役所から『安政三年千代田区復元図』を頂戴しました。

【『安政三年千代田区復元図』】

【江戸時代と現在※赤印が現在の会津藩上屋敷跡】

【会津藩上屋敷跡は、現在では和田倉噴水公園辺り】

 

 江戸時代、江戸城本丸の目と鼻の先に、会津藩上屋敷があったことは、それだけ徳川幕府から絶大なる信頼があった証です。同時に会津藩の栄華だったことがうかがえると思います。まさに、会津藩は徳川幕府の屋台骨だったことは間違いありません。この事実はとっても嬉しくなりました。

【会津藩中屋敷】

【錦絵に描かれた会津藩中屋敷※歌川広重作品】

【会津藩中屋敷の現在(港区東新橋1丁目附近ホテル/ヴィラフォンテーヌ汐留/辺り一帯) 】

 『会津藩中屋敷 (芝藩邸、芝新銭座邸)』は、寛永16(1639)年、保科正之が、希望していた海の見える景勝地を拝領。北は伊達屋敷、南は新銭座町、東は舟路を隔てて後の浜御殿、西は露月町や柴井町、に接する25,129坪でした。延宝5(1677)年、会津藩主第二代・正経が隣接する地を拝領し、29,490余坪の広大な屋敷となりました。 堀を隔てた伊達屋敷との間に「会仙橋」と呼ばれていた橋が架かっており、よく行き来していたとの事です。尚、中屋敷とは上屋敷の控え屋敷であり、藩主が登城しない時の居住屋敷です。

【江戸時代の会津藩下屋敷】

 万治元(1658)年5月15日、三田の高台に下屋敷を構え三田藩邸として実質的拠点としました。三田下屋敷、三田綱坂とも呼ばれ、現在の慶応義塾中等部・慶応義塾女子高校や、綱町三井倶楽部の南半分綱町グラウンドから古川の河岸 (渋谷川の支流/新堀川) までの32,972坪という広大な敷地を有し、屋敷内で軍事調練ができるほどの広さがあったそうです。

【江戸時代と現在】

【綱町三井倶楽部】・・・まるで迎賓館か鹿鳴館のよう・・・

【慶応義塾中等部】

【「慶応義塾中等部」から「綱坂」を上っていくと「綱町三井倶楽部」に到着します】

【「三の橋」から東側の「慶応義塾女子高校までの間に会津藩下屋敷がありました。】

【慶応義塾女子高校】

 私は、ゴールデンウィークの5/5に、「会津藩下屋敷」があったエリアを自分の目で、自分の足で辿ってみました。32,972坪という広大な敷地を現に歩って見ると、それはそれはかなり広かったです。「綱町三井倶楽部」は、実際に門の前まで行くと、洋館でとても高貴で素敵な建物でした。この「綱町三井倶楽部」の庭園の南半分が、会津藩下屋敷だったかと思うと会津藩の凄さを実感できました。

 江戸時代の会津藩の栄華が、この上屋敷、中屋敷、下屋敷から証明されると思います。

【記者 鹿目 哲生】

 

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