【江戸城天守】
【江戸城本丸】
江戸城は、扇谷上杉家の重臣「太田道灌 」(おおたどうかん)によって築かれました。鎌倉時代に建てられた「江戸館」跡に築かれ、1457年(康正2年)に完成したと言われています。当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、櫓や石門などで守りを固めていました。城下町も発達していましたが、太田道灌が暗殺されてしまい、江戸は寂れてしまいます。その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなりますが、北条氏が滅亡したあと、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸城に入城しました。徳川家康は江戸城の改修工事を計画。天下普請(諸大名に対して城などの工事に参加することを強制した徳川幕府の命令)により全国の大名を召集し、改修工事に参加させます。このとき参加していた大名は、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)など。なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が担当したと言われています。 非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、三代目将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に引き継がれました。大改修が始まってから約30年後の1636年(寛永13年)、ようやく江戸城の全容が完成。江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったのです。
しかし、1657年(明暦3年)、江戸では「明暦の大火」(めいれきのたいか)と呼ばれる大火事が起きて、城下町の多くの建物とともに江戸城は焼失。この大火事のあと、本丸や二の丸などは再建されましたが、権威の象徴とも言える天守は再建されていません。これは、「城下町の再建で財政難の時期に、実用性に乏しい天守を再建させる必要はない」という、当時の副将軍「保科正之」(ほしなまさゆき)の進言を幕府が聞き入れたからです。それからの徳川幕府は江戸城を政治の中心地として長期政権を保ちましたが、1868年(慶応4年)に起きた明治維新により、幕府成立から約270年の歴史に幕を閉じました。これにより、江戸城は明治政府に明け渡されることに。 明治時代になり、首都が京都から東京へ移ると、江戸城は天皇陛下の住居となり、「皇城」(こうじょう)、「宮城」(きゅうじょう)と呼ばれていました。現在の江戸城は、皇居であるとともに、国内外から多くの人が訪れる東京を代表する観光地となっています。
【江戸城天守台】
【天守台からの眺め】
【「平川門」から江戸城天守台へ向かいました】
【二重橋】
私は、2023年5月4日、晴天の中、初めて江戸城跡、天守台、二重橋を訪問しました。NHK大河ドラマ「どうする家康」放送中のせいか、観光客がたくさん訪れておりました。日本人以外にも欧米からの観光客も大勢訪れておりました。インバウンド効果が凄いと痛感しました。
【記者 鹿目 哲生】
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