八王子といえば、小田原北条氏の氏康、氏照が築いた山城として知られる八王子城があります。天正18年(1590)6月23日に、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田、上杉に攻められ落城し、これが決め手となり籠城を続けていた小田原城は、開城し北条氏は滅亡しました。この滅亡の約30年程前の永禄4年(1561)9月に、甲斐武田信玄の四女として【松姫】が誕生します。7歳のときに織田信長の嫡子で当時11歳の信忠と婚約をします。しかし、元亀3年(1572)に、信長は、大軍を率いて宿願の上洛の軍をお越しました。行く手には、徳川家康がおり三方ヶ原で合戦が起こりました。信長は、家康のために援軍を送りますが、信玄の圧勝として戦が終わります。この援軍問題で、松姫の婚約は、破棄となります。更には、天正元年(1573)に信玄が亡くなり天正10年(1582)3月に勝頼が天目山で討死し、甲斐源氏武田家が滅亡する不運がつきまといました。松姫はというと、兄の仁科五郎盛信(信玄の五男で信濃の仁科家)のすすめにより高遠城に行きます。しかし、信長軍の侵攻により盛信の娘(督姫)新府城の勝頼の娘(貞姫)小山田信茂の娘(香貴姫)、護衛の武士に連れられて武蔵国横山宿の恩方村の金照庵に落ち着きます。その後、禅師の下で信松禅尼となります。天正18年(1590)に、上野原宿で御所水の流れも清い景勝の地、御所水の里へ移住します。この地に庵を構えます。それが現在の信松院です。
松姫は、織物の技を里人に伝えたことから後世、八王子織物として発展していきます。
世が変わり徳川家康が江戸入城を果たすと、甲信への備えのために八王子に【千人同心】を配置します。この千人同心は、旧武田家に仕えていた旧臣達です。関東の総代官所を八王子に置き、総代官に大久保長安が任命されます。更には、家康から寺領を贈られ、時折、消息を尋ねたりしてなぐさめられますが、元和2年(1616)4月16日に56歳で他界します。
法名、信松院殿月峰永琴大禅定尼
さて、今回ここ信松院にお伺いしたのは、月命日に写経会が行われますが、松姫と安宅船雛形の一般公開を見に来ました。
ここの寺宝として、武田軍船2隻の雛形(模型)があります。安土桃山時代に制作された1/25の木製雛形で、安宅船(現在でいう戦艦)と関船(現在でいう巡洋艦)が奉納され、東京都指定有形文化財とされています。
甲斐に海が無いのに軍船?と思いますが、京へ上り天皇勅命をいただくために、海洋征服するには水軍が必要であったため今川氏に仕えていた阿部忠兵衛貞綱に交渉し、武田水軍創設を任せて、53隻もの大水軍をつくりました。【甲陽軍鑑】には、武田海賊衆と呼ばれています。また、この軍船は、朝鮮出兵のときに、小早川隆景が使用した船になります。
安宅船は、攻防に優れ千石〜二千石(千石の米を積める大きさで、積載150t、排水量200tと推定)が標準とされ、2人漕ぎの櫓が40丁付き、大砲3門、鉄砲30丁とされています。
関船は、小さいがゆえにスピードが早いという特徴があります。早い理由については、竹材が使用され軽量化されています。1人漕ぎの櫓は、42丁あります。
他には、信玄の備品や松姫の備品などの展示がありました。
是非、月命日の16日に参拝、八王子七福神の場所でもありますので一度行ってみてください。大河ドラマ【どうする家康】にも出てくる時代なので何か感じ取れるのではないでしょうか
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