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【史跡を巡る小さな旅・六】江川英龍と江戸屋敷

2023年06月13日 14:19 by tange
2023年06月13日 14:19 by tange

 江川家の江戸屋敷を探る小さな旅である。
 幕末に活躍する江川英龍は、父英毅の死去に伴い34歳の時、伊豆韮山で幕府直轄地を統治する代官に就き太郎左衛門を名乗る。その代官職は世襲で、太郎左衛門は江川家代々の当主に受け継がれた通称である。その支配地は伊豆、甲斐、武蔵、駿河、相模の五カ国で、合わせて78,500石だった。そのため韮山には、広壮な屋敷があった。
 ただし、伊豆国と駿河国駿東郡以外の支配地の行政事務のため、江戸にも屋敷を拝領していた。その屋敷は両国橋で大川(隅田川)を東に渡った先で「御竹蔵」近く「南割下水」沿いにあったと、佐々木譲著「英龍伝(毎日新聞社)」に記されている。
 英龍は一年のうち1月から6月まで韮山に居て、7月から12月までは江戸役所で務めるのを通常としていた。さらに、江川家の菩提寺は浅草・本法寺で、自身の墓は伊豆の国・本立寺にある。つまり、英龍の活動拠点が伊豆と江戸の二か所だったことが良く分かるのだ。

 「御竹蔵」の広大な地は現在、両国国技館や江戸東京博物館などになっていて、「南割下水」は埋め立てられ北斎通りと呼ばれている。
 私は都営大江戸線の両国駅から、北斎通りに面した緑町公園を目指した。そこは津軽藩上屋敷の跡で、浮世絵師・葛飾北斎がこの近くで生まれた。緑町公園の一画に、妹島和世設計の区立すみだ北斎美術館が、アルミ板に覆われ大変ユニークで美しい姿を見せている。
 公園の向かいに、江川家の江戸屋敷が在ったことを示す墨田区教育委員会の史跡案内板を見つけた。ただ、その辺りは大小のビルで埋め尽くされ、英龍の祖父からの屋敷があったとする確証は全く得られなかった。

 JR総武線のガードをくぐり、区立緑図書館を訪ねた。そこも旧津軽藩上屋敷の一画だ。
 そこで、司書のOさんが大変親切に対応してくれた。江川英龍関連の文献が次々と出され、私の要請に応えて数種類の江戸切絵図も提示された。切絵図で津軽越中守と表示された周りを二人で拡大鏡に助けられ探すが、なかなか「江川太郎左衛門」の表記を見つけられなかった。
 しばらくして彼女が、「あった!」と小さく声を上げる。嘉永4年(1851)近吾堂板「南本所竪川辺図」に、その名が記載されていた。津軽藩上屋敷の西向かいで南割下水から南へ一軒置いた地、つまり緑町公園西側の道路を挟み、北斎通りから少し南へ入った位置だった。先に見つけた史跡案内板の辺りで間違いなかった。現在の地名地番は墨田区亀沢1丁目3番。
 切絵図上の江川家屋敷地は、記された当主の名を読むのが困難なほどで、三千石の知行を得ていた幕臣にとって決して広いとは言えない。


緑町公園・すみだ北斎美術館、道路を挟んだ白い建物辺りが江川英龍の屋敷跡

 英龍は父からの役所を引き継ぎ、10人を超える部下(手附、手代、書役など)とともに住み、西洋砲術の塾も開いていた。佐久間象山、桂小五郎、榎本武揚などが学んだ。砲術家の高島秋帆も幕閣と対立した一時期、ここで庇護されたという。
 さらに、土佐中浜村出身の漁師で数奇な運命をたどるジョン万次郎が米国からの帰国後、同じ敷地内の長屋に暮らしたことをOさんが示してくれた図書で知る。その時ここでは、最新の西洋事情が語られていたに違いない。
 英龍の屋敷は、有為な人材が集まり、幕末の江戸城下で海外の情報をやり取りする希有な場となった。
 江川英龍は、安政2年(1855)正月、この江戸屋敷で最期を迎える。享年55。(参照、本誌第8号拙稿「江戸湾・第三、第六台場」)

 その後、継承者はこの地を離れたようで、文久3年(1863)尾張屋清七板「本所絵図」に江川家の記載は無い。
 「江川家の屋敷は芝に移り、幕府の瓦解後、その地が福沢諭吉へ払い下げられ、慶応義塾が開かれた」と、Oさんが伝えてくれた。
 江川家の江戸屋敷は、英龍終焉の地から芝新銭座(現、港区浜松町1丁目)へ移り、敷地内に砲術習練場が設けられ江川氏塾と呼ばれた。そこが慶応4年(1868)に福沢諭吉に払い下げられ、慶応義塾舎となったのだ。
 慶応義塾は、明治4年(1871)、三田(現在地)へ移転。同年、この地を福沢諭吉から譲り受けた近藤真琴が功玉社を築地から移し教育事業を継続する。そのため、当該地の港区エコプラザ玄関前に「福沢、近藤、両翁学塾跡」と刻銘された石碑が立っている。


江川家・芝新銭座屋敷跡(慶応義塾と功玉社、学塾跡の碑)
 
 江川英龍の江戸での活動拠点を確かめるために歩き、とても熱心な図書館司書と出会う小さな旅となった。

鈴木丹下


 

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