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ザ・戊辰研マガジン

2023年秋季号 第3号

ヤマトの歴史 大和五條代官所唯一の遺構「稲荷神社」

2023年08月25日 16:01 by tama1
2023年08月25日 16:01 by tama1

 大和五條代官所唯一の遺構「稲荷神社」 2022-11-09 17:21:21 テーマ:幕末維新(天誅組) 10年に亘って活動してきた幕末歴史同好会YSB(大和・桜井幕末維新を学ぶ会)も最後の企画「天誅組の足跡を辿るバスツア-」十津川編、西吉野・下市編、東吉野・桜井編と巡り、最終の4回目、五條編を以て去る10月29日(土)、無事終了することが出来ました。参加下さった皆様本当にお疲れさまでした。 2012年6月の第一回YSB歴史講座からスタ-トし、年4回の歴史講座や史跡巡りなど総数100名を超える方の参加をいただきました事、厚く御礼申し上げます。YSBについてはまた日を改めて投稿させていただくつもりです。

 さて、今回の本題はバスツア-五條編の中で天誅組史跡を巡るほか、五條のもうひとつの歴史、高貴な母と子「井上内親王と他戸親王終焉の地」に派生して起こった御霊信仰について、御霊神社の宮司藤井利夫氏に講演をしていただきましたが、その藤井宮司より頂いたメールの内容にびっくり仰天! 天誅組が五條代官所を焼き討ちした際、唯一焼けなかった稲荷神社が、天誅組が本陣とした「桜井寺」の隣に位置する「統(すえ)神社」にあることを知ってる?という内容のものでした。実は藤井宮司は私の従弟にあたり、私が以前から天誅組について色々と勉強していることを知っていたことから、連絡をくれた次第でした。

 その藤井宮司も前から知っていたわけでなく、講演依頼の井上内親王について調べていく中で、ある文書にヒットし、その中に代官所にあった稲荷社の移転が記載されており、しかもそれが、御霊神社が管理する統神社だというからなおのこと驚かれたようです。

統神社   五條市須恵     御霊神社 藤井利夫宮司

 統神社は誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、六国史によると「三代実録」元慶五年(881年)10月22日条に「授大和国正六位上三統神、紀伊国正六位上玉出嶋神並従五位下」とあり、三統神は当社に比定されており、国史現在社です。創建や由緒は明確ではないものの相当古いことがわかります。

 ※因みに六国史とは下記の六つの歴史書をいいます。( )は完成年

①「日本書紀」....養老4年(720年)

②「続日本紀」....延歴16年(797年)

③「日本後紀」....承和7年(840年)

④「続日本後紀」..貞観11年(869年)

⑤「日本文徳天皇実録」..元慶3年(879年)

⑥「日本三代実録」..延喜元年(901年)

 ※10世紀初頭の「延喜式」には全国で2861の神社が記載されているそうです。これを式内社(しきないしゃ)といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり、それらを国史現在社または見在社といったそうです。

 さてさて、本題のはなしを長く引っ張ってきましたが、いよいよ代官所にあったという稲荷神社の登場です。冒頭に書きましたが、この度の発見について藤井宮司が見つけた文書というのが、江戸末期から大正まで五條市を中心に生きた実業家高橋直吉の生涯の記録「天寿禄」だそうです。

      統神社 拝殿            花高稲荷神社 祭神 宇迦之御魂命 統神社の拝殿、左側に花高稲荷神社という名のお社があります。お社はこの覆屋といわれる建物の中に鎮座しているとのこと。この覆屋は当時のものではなく、黒くなり文字の判別がつきませんが、どうやら昭和初期に建てられたものであり、寄付者の名が書かれていました。 藤井宮司の特別の計らいで鍵を開けてもらい中に入れていただきましたが、その前に先ずは折角作っていただいた宮司の資料から高橋直吉の「天寿禄」に書かれていた内容について記しておかなければなりません。

 天寿禄(高橋直吉の記録) 文久三年八月十七日申の刻 天誅組総督中山侍従忠光卿が吉村寅太郎(中略)ら六十余名と河内の国の観心寺に立ち寄って武器を狭山藩から徴収し、同寺の宝物である昔楠正成が着た甲冑を借りてきて早速中山忠光卿が着用。軍馬に跨り白旗を立て鐘や陣太鼓を鳴らし、刀を抜いて押し立て、千早を越えて岡八幡社で勢員を確認し早足で五條代官所に押し入り代官の鈴木源内(中略)等の首を切り落とし(中略)一旦桜井寺に本陣を定めて又、代官及び手代の家族をことごとく皆縛って本陣に退き集めた。その日の夜九時ごろ陣屋の書類を講御堂に移しその跡へ鉄砲を打ち込み、陣屋は悉く皆燃え上がった。陣屋の中にあった花高稲荷神社は全く神力が無かったにもかかわらず、後に須恵統神社に移して敬拝された。とあります。

 私がこの稲荷神社を知ったのは、「NPO法人維新の魁天誅組」が主催する古文書講座に参加した際、そのテキストとして配布されたのが五條の庄屋であり世話役の一人である本城久兵衛の日記からでした。高橋直吉の天寿禄の内容とほぼ変わりなく、当日の模様が克明に記されていました。 しかしながら、稲荷神社の件は次の如く、「輝見事成大火ニ候尤御陣内乾角鎮座稲荷神社相残申候」との文字のみで、炎は天に輝く見事な大火であった。もっとも代官所内北西に鎮座する稲荷神社は焼け残ったと書かれているのみで、その後どうなったのか、私にはわかりませんでした。

 私に連絡をくれた御霊神社本宮の藤井宮司は昨年の2月12日(金)に”ひさしぶりに統(すえ)神社の境内にある稲荷神社に入りました”という投稿記事の中で昔、五條代官所内に祀られていた稲荷神社が統神社に移設されたということを書いた高橋直吉の「天寿禄」を読みその確認にお社に入り社殿の背板に何やら書かれている文字を発見、かすかに右上部に五條代官の文字が見てとれるも詳細までは解らず、薄暗い中、フラッシュを焚いて写真にとり帰ってからPCで画面を拡大しかろうじて「寄付」の文字や年号「嘉永四年二月初午」が見えた...を投稿されています。凄い発見です!! YSB天誅組史跡を巡るバスツア-「五條編」でも藤井宮司案内のもと特別に社の中に入れていただきましたが、改めてNPO法人維新の魁・天誅組の幹事長内倉氏とともに再訪させていただきました。

 花高稲荷 文久三年(1863)8月17日夕刻、五條代官所に押し入った天誅組は代官所内にあった衣類や道具、雑具類は残らず百姓で生活に困っている人に配分した後に代官所へ火を掛け、子の刻(午前0時)頃に本陣が燃え上がり、寅の刻(午前4時)頃に鎮火したという。 残らず全焼した代官所の中でこのお稲荷さんだけが焼失を免れていたとは!このお稲荷さんはやはり凄い神さまです? 159年前の五條代官所内にあった唯一の遺構、稲荷神社の前に立ち、まさに鳥肌の立つ思いとともに五條に残る天誅組史跡の一つとして後世に伝える使命を感じた者の一人です。        

 社殿の背板に書かれている文字 確かに御代官や上部に寄付などの文字が見えるものの崩し字の判別がつきません。 五條市立文化博物館館長を兼ねてられる藤井宮司です。学芸員の解読のもと、作成していただいた資料を下記に添付致します。

御代官 内藤杢左エ門藤原忠倹 手付  鯰江幸藏貞永 手代  柏木音太郎藤原典常     加藤督郎藤原行道 寄付  小林幹二郎平逼  .  .

 嘉永四辛亥年二月初午 ※嘉永四年(1851)というから殺害された五條代官鈴木源内の二代前の代官内藤杢左衛門(ないとうもくざえもん)の時代にこの稲荷神社が建立されたのでしょう。 参考のために五條歴代代官の一覧表を下記に添付しておきます。

 天誅組終焉の地「東吉野村」とともに天誅組の変発生の地「五條」には幾つもの天誅組ゆかりの史跡がありますが、代官所の遺構となれば初めての大発見だと私は思います。連絡をくださった藤井宮司には心から感謝の意を申し上げたいと思います。

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