今回は、単独行動で京都新選組結成160年特別拝観として【角屋】と【壬生寺】に訪問しました。
前編
島原の花街は、天正17年(1589)に、豊臣秀吉の許しを得て、柳馬場二条に「柳町」として開設された。その後、御所に近いなどの理由で、慶長7年(1602)に六条柳町に移転させられた。この地は、通称「六条三筋町」と呼ばれ大いに繁盛したが、町中では風紀を乱すとのことからまたも寛永18年(1641)に朱雀野(現在地)に移転を命じられた。「西新屋敷」が正式地名であるが、その移転騒動が当時の九州島原の乱に似ているとして、「島原」と通称されてきた。
島原は、遊宴の場である「揚屋」と、揚屋に太夫や芸妓を派遣する「置屋」からなる分業制をとっていた。揚屋は、江戸吉原においては、宝暦10年(1760)に完全に消滅したが、京の島原や大坂の新町では、拡張を重ねて大型宴会場へと特化していく。その特徴は、大座敷や広庭、茶席を設け、庫裏と同等の台所を備えるところにある。角屋は、島原開設当初から存在するが、現在の規模になったのは、天明7年(1787)の増築後のことである。
幕末になると、角屋は、勤皇派の久坂玄瑞、西郷隆盛、坂本龍馬などの密議に使われた。またご多分にもれず、新選組の出入りもあったが、池田屋のような騒動は起こらなかった。
[角屋パンフレットより引用]
角屋は、現在でいう料亭や料理屋にあたり揚屋建築の唯一の遺構として国の重要文化財に指定されています。また、二階建ての木造建築で、間口が約31mと広く格子造になっています。門口から入ると、正面には大きな台所があり調理場と配膳場にわかれています。
掛け払いで、帳場で、代金、客の好みを記録していたようです。
今回、拝観できた場所は、一階の二部屋になります。
まず、[網代の間]です。
ここは、一階表座敷にあたり天井板絵を網代組にしているところから網代の間といいます。棹縁、長押は、北山杉を使用し、棹縁は長さ四間の北山丸太で、釘隠しは銅製鍍金の宝づくし。といった網代状に組まれた天井が印象的な28畳の座敷。壁面には、何かしらの絵が描かれているが、長年の蝋燭のススにより黒くなってしまっていた。また、天井を支えている梁のようなものがあるが、説明員の話では、2階に人が座ると抜ける可能性があるためところどころ修繕が必要と言っていた。
網代の間の奥にある大座敷[松の間]にむかいます。
庭に、臥龍松があるためこの名前になりました。襖絵は、岸連山筆「桐に鳳凰の図」衝立は、岸良筆三方正面「布袋の図」などがあります。
この松の間で、新選組初代筆頭局長芹沢鴨は、上座に座り遊宴をした場所でもあります。宴のシーンを思い浮かべながら座敷を見るのもありですな。(上座は、説明書がある前あたりです)
角屋2階は7部屋あるようでそのうち2部屋は、予約が必要とのことです。
さて壬生寺に移動します。続く
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