【会津藩主・松平容保公】
【松平容保公肖像画(会津武家屋敷所蔵)】
【越前藩主・松平春嶽・政事総裁職】
京都の治安は、京都所司代・京都町奉行が守ることになっていました。しかし、幕末に尊王攘夷運動が盛んになるに従って、尊攘派による天誅などが横行し、市内の治安が非常に悪化しました。そんな中、1862年、幕府は京都所司代の上に実力を持つ京都守護職をおくことにした。また、幕府は体制強化のため、一橋慶喜を将軍後見職、越前藩主の松平春嶽を政事総裁職に任命した。また、幕府は、松平春嶽に京都守護職を打診したが、固辞された。幕閣は苦慮のすえ、京都守護職に就任を要請したのが、会津藩主の松平容保でした。なぜ、会津藩に白羽の矢があたったかというと、それは徳川慶喜が明治になって「昔夢会筆記」の中で次のように言っているように、その武力に依存したものでした。「所司代では兵力が足らない。ところが浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押えることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。兵力のある者をあすこへ置こうというのが一番最初の起りだ。それで肥後守が守護職となった。」しかし、松平容保は、この就任要請を再三にわたって断りました。当時、松平容保は体調を崩しており、会津藩は江戸湾岸警備で財政は逼迫しており、京都守護職の就任は、会津藩への負担が大きいのが目に見えていたため、会津藩の財政が更に逼迫することから、家臣は誰一人とも賛成する者はいなかった。
[会津藩の財政逼迫の背景]
①弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航した。翌弘化4年(1847)2月、海防強化のため、幕府は忍藩・川越藩に加えて、溜間詰の大藩・彦根藩と会津藩に江戸湾防備を命じた。会津藩には房総警備が命じられた。江戸湾(相州)防備は、会津藩の江戸湾防備は2度目、海防に携わるのは3度目であった。会津藩は、文化5年(1808)にロシアの南下に備えるため蝦夷・樺太警備に出兵したが、文化7年(1810)には相州警備を命ぜられ、文政3年(1820)までの10年間、藩士を駐留させた。駐留が長期に渡るため、現地には藩校日新館の分校が設けられたほどである。このときは、「会津は奥羽の押さえとして枢要の場所であり、遠路懸隔の持ち場と藩兵を二分する現状では、両方ともまっとうすることができない」と申し出て警備を免除されていた。
②弘化・嘉永期の江戸湾(房総)警備については、首席老中阿部正弘に対して、「80里も離れ、応援の派兵もできない場所へ400~500人の兵士を分遣し、城郭のような(外国の)大船が押し寄せたときに、艀・伝馬船のような小船で戦うのでは、どれほど死力を尽して全員が戦ったとしても、食い止めることは覚束なく、警備の意味がない。加えて、我が藩に対して外様大名と同様に外国と戦えと命ずるのは筋違いである。万一外国が日本を窺うことにもなれば、内乱勃発の恐れもあり、御府内第一の防備を命ぜられる筋である」と訴えて、江戸湾防備を回避しようとしたが許可されず、結局は「武門の幸せ」と引き受けることになった。 いったん江戸湾防備を拝命すると、会津藩は「専ら武道を研究し、人々実戦に臨むが如く、冗費を省き兵備を整へよ。益々学校を盛大にし、勿論奉職の者と雖も、文武の芸を励精せよと」とし、3月から順次藩兵を警備につかせた。嘉永元年(1848)、警備兵1397人、大小銃474門、新造船19隻という大掛かりな警備体制であった。 また、藩士一瀬大蔵を江川太郎左衛門に入門させ、西洋砲術を学ばせた。嘉永4年(1851)には江川に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置した。 会津藩の房総警備は容保の治世の嘉永6年(1853)まで6年続き、忍・川越・彦根・会津の4藩による江戸湾防備体制でペリー来航を迎えることになる。
③会津藩は借金財政へ再び転落 一方で、江戸湾防備は藩財政にとって大きな負担となった。幕府からは準備金として金1万両が付与されたがとても賄えず、再び商人への借金が始まった。財政窮乏から幕府にも援助をしばしば求めた。 江戸湾(房総)警備と幕政への関わり この時期、江戸湾防備についたことは、会津藩が海防問題について中央政局に参加するきっかけとなった。嘉永元年(1848)、浦賀奉行浅野が、江戸湾警備の川越・忍・彦根・会津の4大名に意見を求め、翌2年(1849)、幕府は4大名に異国船入港の際の処置を協議させた。この際、会津藩は、異国船来航時の沿岸警備強化を上申すると同時に、幕府が計画していた異国船打払令復活については海防不十分を理由に反対した。異国船打払い令復活は結局、撤回された。このように、参加とはいっても水戸の徳川斉昭のように積極的に建議というものではなく、諮問に答えるという受身の形での参加だが、実際の海防経験に基づき、幕府の方針に是々非々の態度で意見を述べている。
【会津藩江戸湾警備の様子】
こうした背景から、会津藩の財政が厳しい中、京都守護職就任を打診されました。最後には、松平春嶽は、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)の第1条「徳川宗家の言うことに従わない藩主は藩主として認めなくてもよい」を盾に哀願と脅しで迫りました。
『家訓』第一条の原文は次の通りです。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。松平春嶽が強硬に就任を要請した背景には、会津藩がこの困難な貧乏くじともいうべき役職をことわれば、次は京都に近い福井藩に白羽の矢が立つのではないかという恐れがあったとも『会津歴史読本』には書かれています。こうした強い要請により、松平容保は、守護職を拝命することになりますが、この連絡を受けて、会津にいた家老の西郷頼母・田中土佐は、急遽出府し、容保を諌めて「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対しましたが、容保の意思は変わらず、主従がともに「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたといわれています。
松平容保が京都守護職拝命の決断せざるを得なくなった心境を和歌にして父に送っています。「行くも憂し行かぬもつらし如何せん君と親とを思ふ心を」 行くも憂し、と詠っているように、京都守護職を引き受けて京に行くことが、西郷頼母など反対派が主張するように火中の栗を拾うようなものだという事は分かっていたと思います。 しかし、行かぬもつらし、というように家訓を持ち出して説得にあたった松平春嶽の執拗さもうかがえます。 「京都守護職始末」によれば松平容保は、江戸家老横山常徳、留守居堀長守、西郷頼母、田中土佐等を前にして、 ・(西郷頼母・田中土佐など反対派の言葉は)余の初志であったが台命(将軍の命令)がしきりに下り、臣子の情誼(誠意)として辞する言葉がない。 ・余が再三固辞するのを一身の安全を計るものと言うものがあるが、我家には藩祖公の遺訓がある。そのうえ数代隆恩に浴していることを、不肖といえども一日も報效を忘れたことはない、ただ不才のため万一の過失から宗家に累を及ばしはせぬかと、そのことを怖れただけである。 ・(家訓にあるように)他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼっていると言われては決心するよりほかはない。 ・このような重任を拝するとなれば、君臣の心が一致しなければならないから、卿ら、よろしく審議を尽くして余の進退のことをかんがえてほしい。 と言われたので、(横山)常徳をはじめ、いずれも公の衷悃(ちゅうこん)に感激し、このうえは義の重きにつくばかりで、他日のことなどとやかく論ずべきときではない、君臣もろともに京師の地を死場所としようとついに議は決した、と書かれてあります。 前述の和歌に対して、父である美濃国高須藩主・松平義建よりの返歌があります。 「親の名はよし立てすとも君のためいさを顕せ九重(きゅうちょう)の内」 自分の名の義建(よしたて)に掛けて、「親の名は良し立てという、天子のために宮中の中で勇気を顕せ」という意味だと思います。
京都守護職を拝命した松平容保は家臣1千名を率いて文久2年12月24日、京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、金戒光明寺に入る前に、本禅寺で旅装を麻上下に改め、禁裏北側の時の関白近衛忠熙卿に出向き着任の挨拶をした。このあと馬を連ね本陣と定めた黒谷の金戒光明寺に入りました。黒谷金戒光明寺までの道中、多くの京の人々が道の両側で会津藩の行列を見守りました。その規律正しさに京の人々は好感を持ったそうです。また、当時からイケメンと評判だった松平容保公と会津藩士の行列を「ひと目見たい」と集まった町衆は約4kmにも及んだそうです。
【京都守護職・松平容保公入京の様子】
【三条大橋】
金戒光明寺は、京都の東側の黒谷(くろだに)にあります。京都の人には、「金戒光明寺」というより「くろだにさん」と言ったほうがわかりやすいようです。金戒光明寺は、浄土宗の大本山で、法然上人が比叡山を下りて、初めて草庵を結んだ浄土宗最初の寺院だそうです。幕末ファンにとっては、京都守護職会津藩主松平容保が本陣を構えたことで有名です。金戒光明寺が本陣に選ばれた理由として金戒光明寺のホームページには、①城構えであること②千名の軍隊が駐屯できること③二条城などに近いことを挙げています。①城構えであることは現在の金戒光明寺を見てもわかります。まず表門が高麗門となっています。高麗門というは一般的にはお城の城門として利用されるものです。この様式の門が表門として設置されていることでも、城を意識した建造物であることがわかります。また、山門は、厳重な石垣の上に建立されたおり荘厳なものです。石垣も城郭を思わせるほど立派なものです。②千名の軍隊が駐屯できることですが、金戒光明寺は、約四万坪の大きな寺域があり、その中に大小52の宿坊があり1千名の宿舎が十分確保できる規模でした。実際に駐屯の為に大方丈及び25の宿坊が寄宿のため明け渡したという文書が金戒光明寺には残されているそうです。その明け渡された大方丈には、前回ご案内した通り、謁見の間がありました。金戒光明寺があげている理由のほかに、もう一つ大きな理由があると思います。金戒光明寺と徳川将軍家の特別の関係です。金戒光明寺には、2代将軍秀忠の正室お江、徳川忠長、春日局などのお墓があります。それだけ、徳川将軍家から篤い崇拝を受けてきた証しだと思います。こうした将軍家のとの関係があったことも、京都守護職の本陣が金戒光明寺に置かれた理由だと思います。
【金戒光明寺】
新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。文久三年二月八日江戸小石川伝通院に集合した二百四十余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同二十三日京都の壬生へ到着、生麦事件発生により清河八郎他二百余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望し、三月十日老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、同十二日京都守護職御預かりとなった。近藤・芹沢は、京都守護職の松平容保に金戒光明寺の「謁見の間」にて拝謁し、「京都守護職会津藩御預」の身分を得て、市中警護の任務に励みました。「8月18日の政変」での働きによって、武家伝奏より「新選組」の隊名を授かり、その翌年の「池田屋事件」では、僅かな人数で旅籠・池田屋に踏み込み、不穏な計画を画策していた志士達を大勢取り締まりました。
【金戒光明寺の謁見の間】
会津藩主松平容保公が京都守護職に就任したことは、相当苦悩したことがわかります。家老の西郷頼母・田中土佐が、会津藩主松平容保公を諌めて「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対したのも、そのとおりだったと思います。歴史を振り返ってみても、その言葉のとおりになってしまい、会津藩は賊軍の汚名を受けることになってしまいます。さぞ、悔しかったことでしょう。
私は、会津藩の汚名を晴らすために、眠っている真実もっともっと存在すると思います。各方面の歴史研究者によって明らかになっていくことを注目していきたいと思っております。
【松平容保公】
【晩年の松平容保公(会津若松市阿弥陀寺所蔵)】
その後の松平春嶽は、1864年の長州征討のため軍事総裁職に転じた松平容保に代わり、京都守護職に就任する。しかし、当時、松平春嶽に対する幕府要人の評価は険悪であり、長くその職に留まることは困難であった。松平春嶽が同じ朝議参預の薩摩・土佐藩などと結び、雄藩連合を唱えて幕権の失墜に加担し、また、その開国論は目下の朝幕の方針に反していると批判したのである。幕閣中にも春嶽や福井藩人を、「越の奸」「例の狡猾」などと悪しざまに評する者があり、守護職に属すべき新選組なども、福井藩の支配に入ることを喜ばなかった。このような反発の中で京都の治安維持に責任を負えぬことを悟った松平春嶽は、八方に歎願して辞任を許され、京都を去って福井へ帰った。なんて無責任な行動か!
【記者 鹿目 哲生】
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