明治7年(1874)に開園した都立青山霊園は、都心の総面積26万㎡という広大な地に造られた墓所である。ここに眠る三人の旧会津藩士の墓を、霊園北端の管理所から順に巡る小さな旅である。
[小野権之丞]
明治元年(1868)、箱館病院(野戦病院)の事務長に就く。私の曾祖母・鈴木光子の祖父。
小野は、2年(1869)5月の箱館戦争終結後、古河藩領内栗橋での幽閉を経て、神田佐久間町で二人の娘と共にひっそりと暮らしていた。22年(1889)5月2日、永眠。享年72。文久3年(1863)から七年にわたる日記、「小野権之丞日記」を残した。
墓石の正面に「小野氏 之墓」と刻まれ、小野氏の真下に権之丞、その左へ美壽、美登と続けて刻まれている。「氏」と敬称が付けられているので、この墓は権之丞自身が建立したのではないことが分かる。左側面に、下平、土屋、大橋、鈴木……小野など九名の姓が刻まれている。この人たちが立てたのであろう。鈴木は曽祖父・久孝のことと思われる。久孝の養母・美和子は小野権之丞の長女である。美和子の二人の妹は結婚せず父の世話をし、美壽子は19年、美登子は21年、父より先にこの世を去った。残された権之丞の悲しみは、とても計り知れない。
あまり大きくない墓石が、様々なことを伝えている。
(あかまつ坂通り・第13号2種イ自9側至15側)
[井深梶之助]
明治19年(1886)の明治学院創立に尽力し、二代目総理(学院長)を三十年に亘って務める。
低い生垣に囲まれた一画に七つの墓石が立つ。それぞれの墓石正面に個人名が刻まれている。キリスト教の洗礼を受け、留学先の米国で近代思想を学んだ梶之助の意思なのであろう。中央に昭和15年(1940)6月24日に86歳で永眠した梶之助の墓石が置かれ、その名に寄り添って「花」と刻まれている。24年(1949)に他界した妻の名である。その左右に、梶之助の父、母、先妻、他一族、全て井深姓の墓が並ぶ。
父・井深宅右衛門は、会津戊辰戦争の終戦処理に努めていた。明治2年5月18日、主席家老の萱野権兵衛が、朝廷に逆らったとした会津藩の罪を一身に受け広尾の保科家別邸で処刑される。権兵衛は処刑の朝、幼馴染だった宅右衛門へ、彼が極めていた一刀流溝口派の奥義を竹火箸を使って伝授する。それは、宅右衛門から現在まで、日本古武道として継承されている。
父の墓石は、梶之助のそれよりやや小さく、左端に座っている。
(東八通り・第20号1種ロ8側)
[山川 浩]
慶応4年(明治元、1868)、会津若松籠城戦に軍事総督として指揮を執る。
墓地の正面に「山川家之墓」、右側に「男爵山川浩」、左側に「山川唐衣」と刻まれた巨大な墓石が並ぶ。唐衣(からころも)は浩の母。
浩の弟・健次郎は「山川家之墓」に眠っている。山川健次郎は、明治の初頭米国へ留学し、帰国後、我が国の教育界に大きな足跡を残した。
兄弟の妹・捨松は、4年(1871)に我が国初の女子留学生として渡米し、十一年後に帰国する。母は、娘の米国留学の直前、「捨てたつもりで米国に行かせるが、帰りを待つ」という意味を込め、幼名の咲子を捨松と改名した。
唐衣の墓石のすぐ脇に大きな松の木があった。「この松は、帰国の前に没し再会が叶わなかった母に寄り添う娘、捨松の代わりとして植えられた」と興味深い説を唱える人がいたが、全く違っている。母の墓石には明治22年4月22日没とあり、それは捨松の帰国後、七年も経っている。
その松も根本から伐採され、今は無い。
(西十五通り・第18号1種ロ5側1-4番)
それぞれの墓へは、霊園管理所で配布の「東京都青山霊園案内図」によって辿り着ける。
鈴木丹下
次号、「麻布十番」と「白金」
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