2023年07月09日 後編
昼食を終え向かった先は、【旧前川邸東の蔵】です。
毎年恒例行事の山南忌でお馴染みの旧前川邸。令和3年夏の豪雨により新選組旧前川邸の土蔵の屋根が崩落しクラウドファンディングで資金調達をして屋根の葺き替えと修繕工事を経て今日に至ります。文久3年(1863)から約2年間新選組屯所となり仏間のある母屋部分には、山南敬助が切腹したとされる場所があります。※今回は、母屋には入れません。
前川家は、八木源之丞家、南部亀二郎家など壬生に10軒ほど存在した「壬生郷士」の1軒で、名字帯刀を許され武家風の暮らしをしていました。かつての前川邸の屋敷は、総坪数443坪、部屋数12間、146畳と広い家とのことです。
今回の特別拝観は、【東の蔵】です。西の蔵(味噌蔵)と並んでいる東の蔵。前川邸は、掛屋であり京都御所や京都守護職などの公的機関の出納を担当していた両替商。そのため扉や止め瓦には、「三重丸の刻」という家紋(マーク)があります。前川邸の家紋ではなく、掛屋を営んでいた前川家の御所出入りのための門鑑の印のようです。そのため四重扉の厳重な造りで、貴重品(千両箱など)は、床板を外した縁の下などに保管(今で言う地下収納庫)していました。
新選組は、ここ前川邸を屯所とし、池田屋事件の端緒とされる土方歳三による古高俊太郎への拷問が行われた場所でもあります。その拷問は、2階から逆さ吊りにされ、足の甲に五寸釘を打ち、その釘に蝋燭を立て火をつけたといいます。この拷問により京都御所に火を放ち孝明天皇を長州へ連れ去る計画を自白させた場所でもあります。当日使われた荒縄ではありませんが滑車は当時のものらしいです。※拷問部屋の写真は、パンフから加工してあります。内部写真撮影不可のため。
お次は、お隣の通常非公開の【新徳寺】です。
鳳翔山新徳寺は、臨済宗永源寺派の寺院です。天明の大火により消失し、一条家の屋敷を譲ってもらい再建されたお寺でもあります。(屋根の形が公家の屋敷とのこと)
14代将軍徳川家茂の上洛に際して、尊王攘夷、倒幕運動の志士が集まる京都での将軍警護の名目で、江戸幕府は浪士を募集。この浪士組を組織することを幕府に進言、主導したのが、庄内藩の清河八郎。集まった234名の浪士たちが京都壬生村に到着。その夜、本部となった新徳寺本堂で、演説を行う。
「尊王攘夷のご政道を邁進していただく」と。
浪士組結成の目的とは正反対の勤王倒幕論をぶち上げ、大勢がこれに賛同したが、反発した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らは決別し幕府権力の維持を目指し壬生浪士組を立ち上げた。新選組誕生のきっかけとなった演説の場。234人が43畳に居たらしいが‥2畳に10人いけますか?(笑)
また、本堂屋根には、嘉永年の戊申(つちのえさる)とあり難が去る意味を込めて猿が屋根瓦として置かれ、内部の燭台は当時のまま。内陣中央には、本尊の准胝観音菩薩像を安置している。
本堂脇に約8畳の書院造りの一室は、20日程滞在していた清河八郎の部屋で、前住職の山田一道さんの手書きの肖像画が置かれています。絵がうますぎて生きているかのようです。
と、一日が盛沢山な活動でした。
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