武蔵野台地は荒川と多摩川に挟まれた東西に長い地勢で、端部はいくつかの尾根に別れ、それぞれの崖下に、江戸の城下町となった低地が広がっていた。その最も大きく迫り出した尾根の端部に江戸城が置かれ、明治維新後、皇居となった。
台地の縁(へり)には、諸藩の大名屋敷が造られ、姿を様々に変え今に残っている。
武蔵野台地の東南端、JR山手線の五反田、大崎、品川駅辺りに、地名に「山」と付く四つの屋敷町がある。池田山、島津山、八ツ山、御殿山である。それぞれが小高い山で、やや急峻な坂の町だ。
四つの山を巡る小さな旅に出た。
「池田山」
この一帯は幕末まで、岡山・池田藩の下屋敷だった。その屋敷内に造られた奥庭の一部が、品川区立池田山公園として残され、江戸時代の回遊式庭園をそのままに楽しむことができる。
岡山藩祖・池田忠継は徳川家康の次女・督姫を母として生まれた。そのため、岡山・池田藩は徳川の恩情をより深く受け、幕末まで一度も移封されることなく領土も安堵されてきた。
しかし池田藩は、慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いで薩摩と長州藩が勝利すると、直ちに徳川を見限り薩長側になびいた。その処世術が「池田」の名をここに残した。
品川区立池田山公園
「島津山」
一帯は仙台藩伊達家の広大な下屋敷だったが、明治6年(1873)に薩摩の島津家へ譲られる。大正6年(1917)5月、この地に島津家30代当主の島津忠重公爵が自分の邸宅を完成させ、盛大な披露の宴を催した。その屋敷はジョサイア・コンドルの設計で、イタリア・ルネサンス様式の華麗な建造物である。
昭和37年(1962)、清泉女子大学がこの地を購入しキャンパスとした。その際、旧島津公爵邸は大学本館となり、今も原形保存されている。
旧島津公爵邸は、令和元年(2019)12月、国の重要文化財に指定された。
元文2年(1737)から伊達家が領有していたこの一帯が「伊達山」と呼ばれず「島津山」とされるのも、戊辰戦争における勝敗の帰趨によるものだった。
「八ツ山」
ここに、開東閣という近代建築遺産がある。この地は、初代総理大臣・伊藤博文の屋敷跡で、明治22年(1889)に三菱社が買い取り、二代社長・岩崎弥之助の所有となる。弥之助は、ここに自邸を計画し着工するが、完成を待たずこの世を去る。残された屋敷が開東閣である。やはりジョサイア・コンドルの設計で、現在、三菱グループの迎賓館として使われている。
八ツ山は、羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決した賤ヶ岳合戦の七本槍の一人、加藤嘉明に由来する地である。つまり、嘉明の一族が立藩した近江水口藩下屋敷の跡なのだ。
明治初頭、戦国の世からの由緒来歴を知ってここに屋敷を構えた伊藤博文は、長州における自分の境遇を振り返り、革命の成就に感慨無量だったに違いない。
「御殿山」
この地には徳川家別邸の品川御殿があり、歴代の将軍が鷹狩りに出かける時などの休憩所として使われてきた。御殿山は武蔵野台地の東端で、その向こうは海だった。
品川御殿は元禄15年(1702)に火災で焼け落ち、その後再建されることは無かった。その跡に桜が植林され、桜の名所として江戸庶民に人気の場所となった。
嘉永6年(1853)、米国東インド艦隊司令官・ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀沖に現れる。驚愕した幕府は、やっと海防に目覚め、江戸湾上に砲台場を造営し江戸の街を守ろうと図った。埋め立てに必要な大量の土砂を、海に近くて搬出に便利な御殿山の一部を崩し調達した。
この地は幕末維新という荒波にもまれ、さらに近年の大規模な開発事業により、今では御殿山庭園に往時の面影をわずかに残すだけとなってしまった。
品川御殿山庭園の春
四つの屋敷町の住居表示に「山」の表示は無い。つまり、池田山と島津山は品川区東五反田、八ツ山は港区高輪、御殿山は品川区北品川である。その理由については、承知していない。
鈴木丹下
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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